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『マチネの終わりに』第七章(19)

 あの時、何が起きたのか?――洋子はまず、リチャードではなく、クレアに抱きしめられた。そして、その抱擁の時間が、単なる挨拶にしては、些か長くなりすぎてしまったのだった。

 その長引いた分だけ、彼女は安堵し、もうこのまま楽になりたいと感じた。からだの力が抜け落ちてしまったかのようで、自分の足で立っているので精一杯だった。

 続けて、リチャードと交わした三カ月半ぶりの抱擁もまた、あとにはもう引き返せない長さとなってしまった。パリに着いてから、蒔野に改めて、メールを書くつもりだったが、そうすべきではないのかもしれないと思った。今が未練を断ち切るための最後のチャンスで、自分は、あんなにも酷い仕打ちをしたにも拘らず、これほど寛大に差し伸べられた手を、ともかくももう、握ってしまったのだから。……

 離してはいけない。何もかもを忘れて、無かったこととして、自分はリチャードと結婚すべきなのだと彼女は思った。

 すべては、彼の言う通り、マリッジ・ブルーの時期にはよくある、取るに足らない混乱に過ぎなかった。

 振り返れば、洋子のPTSDが最も酷い症状を呈していたのは、あの時期だった。

 西新宿のホテルのエレヴェーターで経験したような強烈なフラッシュバックは、徐々に和らいでいったが、自然に治癒したとは言えず、やはり、リチャードの献身には感謝していた。

 東京にいた間、電源を入れていなかった携帯電話には、蒔野からのメッセージが幾つも届いていたが、洋子は、自分自身をもう後戻りさせないために、それらを読むこともないまま、すべて消去した。そうすることで、彼との関係にけじめをつけた。それが、彼の望んでいたことなのだから。

 それでも、結婚の事実を伝えるメールだけは書いたが、返事はなかった。そもそもが、返事を期待していない文面だった。

 蒔野の音楽も、それ以来、一度も聴いてはいない。彼だけでなく、クラシック・ギター自体を遠ざけるようになって、たまにどこかで耳に入っても聴かないように努めた。


第七章・彼方と傷/19=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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