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『マチネの終わりに』第六章(17)

 別の部屋で寝始めてから、洋子もほっとしていた。プライヴァシーを適度に保つことはお互いのためだったが、奇妙なことに、洋子自身が繰り返し同じ悪夢に魘されるようになったのは、丁度この頃からだった。
 見るのは決まって、あのムルジャーナ・ホテルでの自爆テロ前後の光景だった。
 一階のロビーに男たちが入ってくる。現実には、必ずしもはっきり目を合わせたわけではなかったはずだが、夢の中では、間近で睨みつけられることがあり、時にはアラビア語らしき不明瞭な言語で話しかけられることさえあった。
 あの、既にこの世界からの退去手続きを、あらかた済ませてしまった人の目。数分後には、爆発とともに大理石の冷たい床に落ちてしまう目。……
 そこで激しい動悸と共に目が醒めることもあれば、見ていないはずの爆発を目の当たりにすることもあった。
 閉じ込められたエレヴェーターの角に座って、彼女は助けを待っていた。酷く息苦しく、不安で、ドアが開くと、あの時の恐怖が形を成して押し入ってきて、夢の中で彼女を嬲った。
 繰り返し同じ悪夢に苛まれるというのは、時折耳にはするものの、現実にあることなのだと洋子は初めて知った。そして、バグダッドから帰国したあの日、なぜか同じ飛行機に乗らなかった自分が今もまだムルジャーナ・ホテルにいて、赴任期間をとうに終えたことにも気づかないまま、何度もテロに巻き込まれ続けているのを感じた。
 蒔野とのスカイプの会話を楽しんだあと、深夜に明かりを消してベッドに横たわると、またあの夢を見るのだろうかと不安になった。
 パリでも夜中にパトカーのサイレンが鳴り響くことは珍しくなかったが、そういう時には、あのバグダッドの夜の生の気配が完全に失われた静寂が不意に耳の奥で広がった。
 見たい夢を自由に見られない一方で、見たくない夢を見ない自由も人間にはないことを洋子は知った。
 日中は、どんな活動も許されていた。しかし、夜になるとまた、彼女だけが、会社の同僚や友人たちとは引き離されて、あの死の世界へと連れ戻されてしまうのだった。


第六章・消失点/17=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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