見出し画像

『マチネの終わりに』第八章(39)

 お腹の子供は女の子だと告げられていた。逆子でもなく、今のところ、経過は順調だった。

 早苗は、その生を祝福されていた。出産が近づくにつれ、身の回りには、新しい命をこの世界に迎え入れるための様々な準備が整っていった。バスタオル、肌着、衣服、哺乳瓶、おむつ、おもちゃ、ベビーベッド、ベビーカー、抱っこ紐、チャイルドシート。……生クリームのような甘い白や、パステルカラーのピンク色が、日常を端から少しずつ染めていった。

 蒔野も、埋もれるほどのCDに囲まれて生活しているにも拘らず、わざわざ幼児用の音楽CDを買ってきたり、床で寝転んで遊ぶためのマットを、人から譲ってもらってきたりした。

 しかし、そのすべての幸福が、おかしさの中で起きているのだった。

 子供の名前は、男であれば蒔野が、女であれば早苗が考えることになっていたので、彼女にはその大役が一つ課せられていた。そして、その名前をなかなか思いつかないという、ありきたりな、胸の躍るような悩みが、彼女の場合、なぜか唐突に、あの罪の意識と結び合ってしまい、不穏な焦燥を掻き立てていた。

 子供の名づけ方の本を三冊買い、女子だけでなく、男子の名前にもすべて目を通したが、どこにも、自分たちの子供の名前はなかった。何らかの事情で誤記されているのかもしれないが、ひょっとするとこれかしらというような近い名前さえ見当たらなかった。

 それがまるで、入園式や入学式の受付で、思いもかけない名簿漏れに遭った時のような不安を早苗に与えた。心配する子供の様子が、胎内から伝わってきた。それはまったく、親の責任に違いなかった。受付の担当者は、首を傾げてこう言いそうだった。

「おかしいですね、……あなたがつけた名前、間違ってるんじゃないですか? 本当に、あなたにこの子の名前をつける資格があったんですか?」

 いかにも奇妙な不安だったが、しかし早苗には、自分の周りを取り囲んでいるどんな幸福のしるしよりも、自分が子供の名前の受け取りを謝絶されていることの方が、現実的であるように感じられた。誰も気づかなかったが、それがあの罪の報いなのではあるまいか。


第八章・真相/39=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?