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『マチネの終わりに』第六章(60)

 彼が長らく思い悩んでいたということには、時が経つほどに同情的になっていた。しかし、それを伝えるあのメールの悲愴な口調には、彼がほんの気散じにつきあっていたような女にこそ相応しい類の、そこはかとない安っぽさがあった。

 “芸術家としての苦悩”などという物珍しい理由をあんなふうに切り出されたならば、大抵の女は面喰らって、彼との関係を諦める気になるだろう。

 しかし、自分に対しては、もっと違った打ち明け方があったのではなかったか? そんな、相手が誰であろうと怯むような、散々使い回されたふうの深刻さとは異なる言葉が。――自分たちは、いつもそうして、ただ二人だけの特別の会話を交わしていたのではなかったか? お互いが、他の誰よりも深く相手を理解し、だからこそ必要とし、求め、愛し合っていたのでは? それは、彼とつきあう誰もが、束の間、夢見心地に信じてしまう、ありきたりな思い込みに過ぎなかったのだろうか? それとも、彼自身が一度はそう信じ、結局、いつもの幻滅を反復しただけだったのか。……

 もし彼が、前夜のメールを取り消して、改めて愛を告白し、結婚したいとその意志を伝えるつもりであるならば?――あまりありそうにないことだったが、洋子はそうした希望をまだ捨ててはいなかった。しかし、たとえそうであったとしても、その言葉を、ほっと胸を撫で下ろしつつ受け容れることは出来なかった。

 自尊心のためばかりではなかった。そのためには、彼の抱えている問題と向き合い、自分として何が出来るかを考えるための真っ当な話し合いが必要だった。場合によっては、彼女こそがむしろ、彼と別れるという冷静な選択をしなければならないのかもしれない。しかし、何かほんの些細なきっかけでも暴発してしまいそうな今の危うい精神状態では、それとて決して望めなかった。

 今はただ、猶予が欲しかった。せめてそのための時間だけは、彼に待ってほしかった。


第六章・消失点/60=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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