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『マチネの終わりに』第七章(14)

 アメリカ人だからだろうか? しかし、洋子は今、一歳になったばかりの男の子――ケンという名前だった――を育てながら、語学学校でフランス語を教え、同時に、チェルシーの自宅近くのギャラリーで働いていたが、そこで接する男たちにせよ、別に彼女に何をひけらかすというわけでもなかった。

 そんなことを考えながら、洋子は久しぶりに、蒔野聡史のことを思い出した。

 ――彼は今、何をしているのかしら?……

 他人との違いが、嫌でも優劣として際立ってしまうような、真の才能に恵まれた人は、凡庸であることにこそ切実に憧れるものなのだと、洋子は彼との短い関係を通じて知った。自分自身は、天才でも何でもないが、しかし、なかなか人と話が合わないという程度の経験からなら、彼に共感を抱くことも出来た。そして自分は、その彼との会話だけは、いつも心から楽しんでいたのだった。

 彼とて、男だった。そういう例を知っているという事実は、ヘレンへの反論の根拠として、洋子の自尊心を少しくくすぐった。

 しかし、それと同時に、まだ懐かしいと感じるほど、彼の存在が薄れてはいないことも知った。

 もう二年経っている。しかし、まだ二年だと、誰かはわからない親しい人の声で、念押しされた気がした。彼の記憶が脳裏を過ると、洋子はその痛みのために、覚えず下を向いて目を瞑った。

 ヘレンは、洋子の曖昧な反応が不服のようだった。

「ささやかな楽しみよ。わかり合える人同士でいる時くらいは、せめて思う存分、自慢話でもしないと、何のために生きているか、わからないでしょう? かわいそうに。世間では、お金を持ってるだけで悪党みたいに言われてるし。」

「自慢したいっていう人間の気持ちもわかるけど、……今、わざわざ高級車を乗り回している話をして、そんなに気分がいいかしら? たとえ内輪であったとしても。」

 洋子は、話に集中していなかったせいで、余計なことを言ってしまったと感じた。


第七章・彼方と傷/14=平野啓一郎

#マチネの終わりに


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