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『マチネの終わりに』第七章(22)

 名医だと人気の産婦人科通いの効果もあって、ケンの妊娠は思いの外早かった。それが、どれほどの喜びをもたらし、自分の人生を新しく感じさせたかは、幾ら言葉を尽くしても足りなかった。リチャードも、そして、双方の家族も皆が祝福してくれた。その笑顔がまた嬉しく、少しくプレッシャーにも感じた。

 四十二歳となっていた洋子は、これが恐らくは最後の出産のチャンスだろうと思っていた。

 悪阻が重かっただけでなく流産の懸念もあり、夫婦関係は保守的に慎んだ。リチャードは、それを当然のこととして受け容れ、不平を言わなかったが、日常の何気ない抱擁やキスにも、どことなく重たく引き摺るような熱が籠もった。彼は、性欲というものの子供じみた振る舞いに手を焼いた。寝苦しい夜に、思わず代替的な方法を仄めかしてしまった時には、洋子もそれに応じた。しかし、やがて恥じ入るようにして、彼の方からそれを求めることはなくなった。

 リチャードの名誉のために言うならば、彼は決して、こんな妊娠中のありきたりな苦しみのために、洋子に不満を抱いたわけではなかった。しかし、悪阻で洋子がいらいらするのと同じ程度の必然性で、それが彼に、作用したのは事実だった。問題は、その作用がいかにも妙な具合に表れてしまったことだった。というのも、婚約期間中から、自分が洋子から愛されていないのではと不安を覚える時には、肉体的な交わりの激しさによって、それを紛らせようとするのか、彼のクセになっていたからだった。

 リチャードは、痩身で、あまり目立たなかった洋子のおなかが、ようよう人の注意を引くようになったくらいの頃に、唐突にこんなことを言った。

「君は、僕との結婚を後悔していない?」

 それは丁度、急にこってりしたものが食べたくなったという洋子のリクエストで、チェルシーの自宅近くのシックなピザ屋に二人で行った時のことだった。

 マッシュルームがたっぷり載った名物のピザを、リチャードはいつになく、二切れ半しか食べなかった。


第七章・彼方と傷/22=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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