見出し画像

ある男|19−1|平野啓一郎

城戸は、美涼と連絡を取り合い、名古屋行きののぞみは、隣同士の座席にした。

彼女は東京からで、城戸が新横浜で指定席の車両に乗ると、軽く手を振って笑顔で迎えられた。

「髪切ったんですか?」

「昨日。」

「え、今日のために?」

「ううん、たまたま。」

ニット帽から覗いている髪は、辛うじて肩に届く程度で、色はダーク・ブラウンに染め直されている。格好は以前と変わらず、この日は、ミリタリー風のジャケットに細身のデニムを合わせていた。城戸は、美涼に会うのは三回目だったが、隣に座ったのは初めてだった。甘い苦みを含んだような柑橘系のコロンの香りがした。

城戸自身は、ネクタイなしでスーツを着てきた。

九時台の新幹線だったが、乗客は疎らで、彼らの二人席の前後は空いていた。

名古屋までは一時間半で、しばらくは、この数ヶ月ほどの間、どうしていたのかを互いに語り合った。

美涼は、バーを辞めた話をしたが、その理由は、「マスターの猛攻を凌ぎきれず。……」と苦笑した。

「最初は冗談半分だと思ってたけど、段々、口説き方が本気になってきちゃって。」

「本気なのは、一目瞭然でしたけど。」

「わかりました?」

「それは。……でも、気持ちはわかりますよ。あんな狭い店で、隣にこんな美人がいたら、好きにもなるでしょう。」

「そういう好かれ方をするのが、わたしの人生なんですよ。浅ーい感じ。」

美涼は、おかしそうに言った。城戸は、その大きな笑顔を横から見つめた。

「わたし、それに、あの人たちの会話について行けないんです。カウンター・デモに行ったあたりから、なんかもう、あのお店にいるのが面倒臭くなって。元々、お金のためっていうより、趣味でやってただけだったし、楽しくないのにいても仕方がないから。深夜までずっと立ってるのも辛くなってきて。もう若くないですよー。あはは。」

「辞める前に、もう一度、飲みに行きたかったなあ。ウォッカ・ギムレット、すごく美味しかったから。」

「えー、あんなの、いつでも作りますよ。でも、お店だとわたしが飲めないから、どっか飲みに行きましょうよ、今度。」

その一言の扱い方次第で、未来が変わるような夢想が、城戸の中に一瞬烟ってすぐに消えた。そして、

「飲んでましたよ、僕が行った時も。」と受け流してしまった。

美涼も、特段それを気にする風でもなく、

「あの時だけですよ。いつもはカウンターの中で、飲まないんです。」と笑った。

* * *

平野啓一郎新作長編小説『ある男』9月28日(金)発売。
※現在amazonにて予約受付中です。

読者のみなさまへ

この続きは平日毎日noteにて掲載します。また、平野啓一郎公式メールレターにご登録いただくと、毎週金曜日に先行して無料で続きを読んでいただくことができます。コメント欄での作品へのご意見やご感想もお待ちしております。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?