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ある男|23−3|平野啓一郎

彼女は昔から、読書家という人々に一目置いていて、しかも残念ながら、自分だけでなく、前夫も亡夫も、その資質を欠いていた。つまり悠人は、父親とも母親とも違った人間として、いつの間にかそうなっていたのだった。その理由は、きっと彼の境遇のためだろうと思っていたが、彼女はそのことを、瓦礫からいつの間にか芽吹いていた花のように、美しいと感じていた。

家族に対しては無口になっていたが、その代わりに、ノートに何か文章らしきものをしきりに書いている様子だった。里枝はもちろん、それが気になったが、勝手に見ることが、息子との信頼を二度と恢復できないほどに傷つけてしまうことを恐れて、手をつけまいと決心した。

ほどなく、しかし、里枝は、敢えて盗み見るまでもなく、悠人が表現しようとしているものの一端に触れることとなった。

昨年の秋、彼が夏休みの宿題として提出していた俳句が、新聞社が主催する全国的なコンクールで最優秀賞に選ばれ、表彰されたからだった。

悠人はそのことでさえしばらく黙っていたので、里枝は受賞記念の大きな楯が部屋の片隅に転がっているのを見つけて、随分と経った頃に初めて知ったのだった。

その句は、こういうものだった。

  蛻にいかに響くか蝉の声

里枝は、この句の出来映えを自分では評価することが出来なかった。しかし、悠人がこれを作ったというのは、いかにも信じ難かった。あとから億劫そうに見せてくれた「選評」には、「衒気が鼻につく」と難点も指摘されていたが、一方で「早熟の才能」という思いがけない言葉があり、「受賞のことば」には、悠人自身のこんな説明が付されていた。

「古墳群公園の桜の木に、?の蛻がひとつ、とまっていました。

木の上では、蝉がたくさん鳴いていました。

僕は、この蛻から飛んでいった蝉の声は、どれだろうかと耳を澄ましました。そして、残された蛻は、七年間も土の中で一緒だった自分の中身の声を、どんなふうに聞いているんだろうと想像しました。

蛻の背中のひび割れは、じっと見ていると、ヴァイオリンのサウンドホールみたいな感じがしました。そして、蛻全体が、楽器みたいに鳴り響いているように見えたので、僕は、この句を思いつきました。」

悠人は、弟の死のことにも、父親の死のことにも一切触れていなかった。けれども、里枝は、この「桜の木」というのは、夫が「自分の木」に決めていた、あの木のことなのだろうと思った。そして、本当に去年の夏に、彼が一人で古墳群公園を訪れ、こんな経験をしたのか、それとも、すべては空想なのかはわからなかったが、いずれにせよ、あの木の下で、蝉の鳴き声を聞きながら、独りその蛻を見つめていた息子の姿を想像して、涙が止まらなかった。「早熟の才能」かどうかはわからなかったが、ともかく、彼女は、文学が息子にとって、救いになっているのだということを、初めて理解した。それは、彼女が決して思いつくことも、助言してやることも出来なかった、彼が自分で見つけ出した人生の困難の克服の方法だった。

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