『マチネの終わりに』第八章(34)
どんなに地元で褒められても、東京に行ったら、もっとすごい人がいるに違いないって思ってたし、況してや、スペイン人とかフランス人とかのギタリストなら、誰でも当然のように知ってることで、俺の全然知らないことがあるんじゃないかって、ずっと不安だったから。うまくなりたいってだけじゃなくて一種の強迫観念で練習してたところもあるかな。……」
武知は、蒔野をつくづく見つめながら、感じ入ったように聞いていた。
「僕は、そこまで思えなかったんだよね。そこまでは、結局、やらなかった。……蒔ちゃんには頭が下がるよ。」
「いや、だけどさ、いざパリに留学してみたら、エコール・ノルマルの学生だって、案外、ソル全部なんて弾いたことがないとか、平気で言うからさ、ぽかんとなっちゃって。祖父江先生に騙されてたのかな。……あとはさ、やっぱり、ギターっていう楽器の問題もあるじゃない? どれだけ練習しても、ピアニストからしてみれば、たったそれだけ?ってことなのかな、とか。」
「今でも思うよ、それは。――それで、そうそう、最初に見かけた時は、みんなコンクールの本番前で、必死に楽譜を見直したりしてるのに、蒔ちゃん独りだけ、小説読んでたんだよ! カルペンティエルの《失われた足跡》。」
「そうそう。よく覚えてるねぇ?」
「そのあと僕も買ったんだよ、あの本。けど、読み通せなかった。それでますます、蒔ちゃんに恐れ入って。」
「まァ、難儀な本だよ。……あれも、祖父江先生が、ギタリストだからって、ギターばっかり弾いてちゃだめだ、ブローウェルやヴィラ=ロボスがどういう国の人なのか、ちゃんとその背景も知らないといけないって言うからさ。地元の一番大きな本屋に行って、ブローウェルの祖国のキューバの小説だっていうから買ったんだよ。」
「祖父江先生は、僕にはそういうことを言わなかったなァ。――でも、あの時は、いやな感じだったよー。」
蒔野は苦笑して、
「そういう作戦だったんだよ。」
と言った。武知は一瞬、本気にしかけたが、冗談とわかったようだった。
第八章・真相/34=平野啓一郎
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