『マチネの終わりに』第八章(54)第九章 (1)
「大事なのは、お前たちを愛していたということだった。理解し難いだろうが、愛していたからこそ関係を絶ったんだ。そしてお前はこんなに立派に育ち、お母さんも平穏に暮らしてる。多分、間違ってなかったんだろう。」
洋子は、首を横に振って、鼻で大きく息をした。
「でも、お父さんとは一緒に暮らせなかった。」
そう呟くと、彼女はサングラスの下から涙を溢れさせながら微笑んだ。
「だから、今よ、間違ってなかったって言えるのは。……今、この瞬間。わたしの過去を変えてくれた今。……」
洋子は、長い時を経て、まるでこの時のために語っていたかのような、初対面の日の蒔野の言葉を思い出した。ソリッチは、洋子の言葉に頷いたが、あとの思いは、波の音に委ねて敢えて言葉にはしなかった。
◇第九章 マチネの終わりに(1)
蒔野聡史と小峰洋子の二人にとって、二〇一一年は、その関係に斥力と引力とが同時に働いていたような年だった。
早苗の告白以後、蒔野は、妻に対する幾重もの矛盾した感情に苦しんでいた。
冷たく激しい憤りと何となく淋しい思いやり。突き放すような軽蔑と見捨ててもおけぬ憐憫。その言動の一つ一つに対する根本的な不信と、これまで以上の深い理解。そして、一度ならず別れるという決断にさえ心を傾かしめた嫌悪と、もう既に愛着と呼んだ方が近いような慣れ親しんだ愛情。……
祖父江や娘の奏(かな)が示す早苗への無条件の信頼には苦いものを感じたが、と言って、誰かがもし、早苗を狡猾さを以て貶したとするならば、蒔野は烈火の如く怒って、その弁護を買って出たことだろう。そういう時に、妻を庇うための美点には事欠かない気がした。
出産の感動は、蒔野に早苗への否定的な感情を一旦忘れさせた。陣痛に耐える彼女の姿には、その愛への執着がどれほど人間的に間違っていようとも――いや、むしろだからこそ――何かしら健気なものがあった。多分、その瞬間に人が不意に立ち返る、或る生物学的な視点のためだったが、蒔野はそこまではっきりとは自覚せず、ただ漠然と、そうした直感に刺激されていた。そして彼は、妻の手を握り、顔を寄せて感謝の気持ちを伝えた。
第八章・真相/49 第九章 マチネの終わりに/1=平野啓一郎
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