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『マチネの終わりに』第六章(68)

 必ずしも返事は期待していなかった。ただ、自分の人生を前に進めるためには、そうした手続きが、いずれにせよ必要なはずだった。

 もし、彼にもう一度会うとするなら、それからだと。……

 長崎を発つ日の朝、二人で台所に立って、昔よくそうしたように母と一緒に朝食を作り、向かい合って静かに箸を進めた。サラダにヨーグルト、バゲットにハムといった簡単な内容だった。

 洋子の母は、しばらくぼんやりと考えごとをしていたが、唐突に口を開くと、英語で、

「見ちゃいられない。」

 と言った。

 洋子は、つと顔を上げて、母を見つめた。母は頬を紅潮させて、英語で話を続けた。

「あなたには話したことがなかったけど、……わたしも、若い頃から本当はあんまり体調が良くなかったのよ。特に、あなたと丁度同じくらいの歳の頃からは。病院に行っても、原因はよくわからなかったけど、……」

「後遺症? 被爆の?」

 洋子の母は、娘がその事実を既に知っていることを察していたように表情を変えなかった。

「どうなのかしら、……わからない。あなたのお父さんには、結婚する前に、一度だけ話したことがあるの。わたしは、健康な子供を産めないかもしれない。それでもわたしと結婚する?って。義務感って言うより、黙っているのが苦しかったから。」

「――お父さんは、何て?」

 母が英語で喋っている理由はわからなかったが、父のことを考えながら、無意識にそうなっているのだろうかと洋子は考えた。それともやはり、日本語では、被爆の事実について語りたくないのか。彼女も、呼応するように英語で応じた。

「自分は、そういう話は信じてない。けれども、たとえ障害児が生まれたとしても、自分はその子を一生、愛し続ける。当然のことだって。」

「嘘だったわね、それは残念ながら。――」

「嘘じゃない。あなたのことを、彼はすごく愛してるのよ。」

「遠くから、ね。……でも、やっぱり、近くにいてほしかった。」

「洋子、……違うの。」


第六章・消失点/68=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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