私は観る、私は書く

またしても中止だ。
急遽、発令された緊急事態宣言。"社会生活に必要"な業種以外への休業要請。
突如陥れられる混乱。

Twitterで流れてきた舞台の損失額は50億を越えるらしい。この一年のことを考えると、どれだけの額になるんだろうか。

不要不急という言葉にも耳慣れてしまった。
確かに"不急"なことはたくさんあるかもしれない。大変なときに、今やらなくても…というのはある程度理解はする。
でも"不要"って、それは誰が決めることなのだろう。誰かが決めつけていいことなんだろうか。
モヤモヤする。
不要不急という言葉が嫌いだ。

なにより、不要不急とされるものを生業としている人たちの生活を軽視しているようで嫌なのだ。
そこに見え隠れする、職業への偏見。無理解。
好きなことを仕事にしているんだから我慢できるだろうという幻想。

突如観れなくなった、ただの紙切れになってしまったチケット。これを読んでくださってる方の手元にはたくさんのチケットがあるだろう。
複雑な思いでチケットを眺めて泣いた方も多いと思う。
つらいですよね、我慢しなくていい、みんなで泣こう。

私にはミュージカルゴヤの4枚のチケットがある。
本来の千秋楽まで見届けるはずだった。
中止が決まる前にすでに6回観たので、普通それくらい観たらもう満足だろうと思われるかもしれないが、そんなに簡単には割りきれるものじゃないのだ。
「まだ次がある」と思って観るのと、「これが最後」と思って観るのとでは、エベレストとマリアナ海溝くらいに全然違うのだ。

一年前の突如中止の経験があるので、毎回劇場に向かう度に、着いたら中止の張り紙があったらどうしよう、また突如明日からありませんってなったらどうしようと、考えないようにはしていたけど言葉にすると現実になりそうな気がして言葉にしなかった不安はもっていた。
だからもう、それはそれは一回一回を超真剣に観たことには間違いない。
そして、真剣に観るほどにその面白さにハマっていくから、もっと観たい!の気持ちが強まる。

ミュージカルゴヤの製作が発表されて、大体のあらすじ、メインキャスト、日程くらいしかわからなかった時は、正直なところ、これはパスかなと思っていた。
そこへ、後日わたしの最推しの岡崎大樹さんが出演(しかも1年ぶり!)となれば、俄然通うしかないとなった、全くもって作品そのものへは何の敬意を持たずにチケットを買ったダメファンなので、その変わり身の早さに自分でも笑うしかない。

全くのオリジナル、日本どころか世界初演、チラシのメインビジュアルからは、悪いが中身の想像がつかない(苦笑)
もともと、チケットを買うのは博打のようなものだ。自分にとって面白いか面白くないかを数ヶ月も前からお金と時間を賭けて、結果勝つか負けるかは幕が開くまでわからない。

初日観たときは、よっしゃぁぁぁ!これは勝った!!!と小躍りしたくなったものだ。
なんといっても推しが踊り、歌い、演技する。

ただ、テーマが掴みきれないボヤッとした感じは残った。
しかし、舞台には"スルメ舞台"というものがある。噛めば噛むほど、観れば観るほどに味か深まるやつだ。個人的経験からすると、スルメ舞台のほうが美味しいのだ。
それを期待して観た2回目は、役者さんたちの歌への音と気持ちの乗せ方が全然違っていて、これは回数を重ねて成長する舞台だなというのを肌で感じた。
後から考えるとこれは当たり前で、観客の前でやることで、舞台は本当の完成に近づくんだよね。

観れば観るほどに、これは表に現しているのはゴヤの人生かもしれないが、その裏側には深いテーマ、問いかけがあるなということに気づいた。
今だからそう思うのか、今だからそう作ったのか、はたまた私の曲解なのかはわからないけど。
そして、その奥にある問いかけは1つじゃなくて複雑に絡み合っているから、なかなか一筋縄ではいかない物語だなとも思った。
丁寧に一つ一つ解していく作業が必要だ(少なくとも私には)

舞台は鏡だ。
そのときの自分を映し出す。だから、同じ演目でも観る時期によって感じるものは全然違う。
そして、観ることによって自分や自分を取り巻く世界について、ぐるぐると思考が回る舞台はとても刺激になる。
また、知らなかったことに出会って新たに興味がわき、自分の知識の畑を耕していくという経験も大事だ。
こういうことができる演目に出会ったときに、良い演劇体験というのではないだろうか。

人というのは、自分で思っているよりも限られた世界狭いでしか本来は生きられないと思うのですが、演劇に触れることはその世界を無限に広げる可能性がある。
わかりやすい学びの機会。

ミュージカルゴヤは、私にとって、改めて芸術って何だろうなと考えさせられる舞台だった。
一時期、私も表現者になりたかった過去があるので余計にそう思うのかもしれないが、確かに芸術ではお腹いっぱいにならないし、現実それで食べていける人は本当に一握りなんですよね。
努力だけでは叶わないし、才能だけでも大成しない。神様から与えられた運とギフトによる要素も大きいし。
一度芸術にとりつかれた人間はなかなかその沼から抜け出せない魔力のようなものもある。
ゴヤが生きた時代、そして今、ともすれば"不要不急"で片付けられてしまうものにとりつかれた人がどうやって生きていくのかってことを、改めて考える。
その考えている途中で観る機会を失ってしまったことが、私はとてもショックなんだ。
宙ぶらりん。
思考の霧深い森のなかで、道が途切れてしまった。これ以上前に進めない。その先にどんな景色があるのかを見ることができない。悔しい。

ひとつ、私のなかで揺るぎない感想は

私は見る、私は描く

この言葉のシンプルさへの共感だ。
言葉の通りなんですよ、ただそれだけ。
私の文章力が足りなくて上手く書けないもどかしさを抱えながら、noteに打ち込んでいますけど、伝わるかな(汗)

受け手の感動をこうしてやろう、気持ちを動かしてやろうとして作ったものは、実はそれほど感動を産まないような気がするのです。
確かに技術に感動することもあるので一概に言えることではないとは思うが。

文化の灯を絶やさないとか、それで生きてる人がいるっていう理由付けも大事かもしれないが

創りたいから創る

緊急事態においては、ただのエゴにうつって見えてしまうかもしれない、シンプルな欲求。
その抑えきれない衝動を持つ人たちが表現者なのだと思う。

その表現者たちがこの世に在る意味についても考えてみたのだが、私にはまだそこまでたどり着けなかった。

そして、私はなぜ、その表現することにこだわる人たちに牽かれるのだろうという謎。

知りたい、ただそれだけ。

だから

私は観る、私は書く。

このnoteは私の思考の整理だから。

とはいえ、表現するということは、誰かに認めてもらいたいという気持ちも無視はできないわけであり、ゴヤが宮廷画家としての地位を確立したい気持ちはわかる。
わかりやすいほどに、わかる。
そして、ゴヤにとってサパテールがどれ程に有難い存在なのかも、とてもわかる。
私だって、この文章を読んでもらって、面白いなぁと思ってもらえる人がいたら、どれ程の喜びになるか。

あぁ、人間というものは複雑だ。

これを書いている時点では、まだミュージカルゴヤの公演そのものは終わっていない。

名古屋公演は残り少ないが、まだチケットは買える。

私の宙ぶらりんな気持ちをきちんと終わらせるために観に行くかどうか、悩んでいる。
チケット販売サイトの決済寸前のページにまで進んでは、最後の一押しができずにページを閉じることを繰り返している。


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