私は、震災前のこの街を知らない
私は、2017年に仙台市沿岸部の若林区荒浜・荒井で農家になりました。今借りている畑60aは、地下鉄荒井駅と、震災遺構荒浜小学校の中間地点くらいにあり、2011年の東日本大震災で津波を被りました。
震災時、私は富山県の高校3年生で、仙台市内の大学に入学が決まった直後でした。仙台に来たのは、大学受験(2011年1月)が初めてで、受験会場の青葉区内に3日程いました。2度目がちょうど震災の日、3月11日昼過ぎでした。車で仙台市に入り、入学手続きのため青葉区川内周辺に居た時、私も震災を経験しました。母と、大学生スタッフの方と居た時でした。
そして、沿岸部をはじめて訪れたのは、2011年6月頃のことです。GW明けに遅れた入学の後、友達に誘われボランティア活動を始めました。街中の様子と、津波が来た地域の様子と、非常に大きな温度差を感じました。街中にいれば、それほど震災の影響を感じることなく、普通に一人暮らしを送ることができました。沿岸部では、まだまだ片付けは終わらず、大きながれきをどかしてある程度で、避難所暮らしの方が多くいらっしゃいました。
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仙台市若林区荒浜地区のお話をしたいと思います。
土日や休みの日を利用し、ボランティア活動に通うようになり、時間も経て、地域の方々とお話する機会をもらいました。
「この街にはね沢山の人が住んでいたんだ」
「おらいの家はあの松の木の下の方でなぁ」
「豆腐屋があって、はじめてのお遣いがそこでね。みんなどこの子供ってわかるしね。褒めて、おまけをくれたりね」
「夏の深沼海浜浴場には車がずーっと並んで、入れなかったんだ」
「海が見えないくらい松林があってね。今はすっかり歯抜けだなぁ。」
海岸から1キロも離れていない街です。沢山の思い出が、歴史が、暮らしがありました。
私は、震災前のこの街を知りません。
話を聞いたり、写真を見たり、映像を観たりすることはできます。その空気感や暮らしを肌で感じることはできませんが、住んできた方々の記憶の中にある、この街を感じるととても暖かい気持ちになります。そしてそれを奪った震災を思うと苦しく悔しい気持ちになります。
甚大な被害の中、農業を再開してこられた農家の方々、今でも移転先から通いながら農業を続けている農家の方々、私はそんな方々の想いに心打たれました。
住宅はほぼ全壊し、戻りたい。戻りたくない。戻れるか分からない。家族の中でも意見が分かれ、すぐに決められることではありませんでした。
そして、同年12月に沿岸に「災害危険区域」が指定され、住居の新築、居住が全面的に禁止されました。
全戸集団移転です。避難タワーや防波堤や様々な防災対策を行なっても、居住には危険性が高いとの理由でした。
今年2019年11月には、かさ上げ道路「東部復興道路」が開通し「災害危険区域」は、海とかさ上げ道路の間に挟まれることになります。また大きな津波が来た時、かさ上げ道路は第2の堤防となり、つまり、災害危険区域内で津波被害を食い止めようという計画です。
かさ上げ道路には、道路を横断するトンネルはありません。東西にかさ上げ道路を横断するときには、6メートルのかさ上げ道路の上の交差点を通ります。津波が来た際、トンネルがあると、内陸部に波が通ってしまうからです。
東日本大震災の時は、高速道路の仙台東部道路(海から約4キロ)で津波が食い止められましたが、トンネルや橋梁で被害がさらに内陸まで広がったところもありました。そのような教訓も得てとのことです。
災害危険区域では、荒浜小学校が震災遺構となり、モニュメントが設置されたり、避難の丘が建設されたり、住宅跡地が見学用に整備されたりしています。
震災前お住まいだった方々始め地域の方々は、本当に本当に複雑な心境だと思います。何年経っても、まだ家の跡に行けない、という声も聞きます。私でも、住宅跡などを見ると苦しく、面影がなくなっていく風景を見るとやるせない気持ちになり、積極的に訪れることができません。
決して戻ることのない現実と、工事などで変わっていってしまう現実がここにはあります。
今、荒浜地区は、震災遺構荒浜小学校や深沼海浜を中心に、全国からあるいは国を超えて震災の教訓を学びに訪れる場所になっています。とても、必要で、大切な取り組みです。未来の人々の命を守る、暮らしを守る、教訓であり、防災について発信していかなければなりません。
同時にどこか気持ちの中の自分が、
「この場所を単なる観光地にはしたくない」
と思うのです。
すでに97%利用方針が固まった「集団移転跡地利活用事業」では、仙台市が移転跡地を買い取り、元住民など事業者に土地を貸し出す仕組みです。既に選定された事業者は、元住民の方を始め、市内の企業や個人です。
事業の実現性とともに、自然環境への配慮、地域の歴史や震災の記憶の継承、まちづくり、など社会貢献的要素も評価の基準となりました。そのような基準に基づき、事業者が選定されています。
私、平松希望は、荒浜地区の第三次募集に応募し、荒浜小学校横の計0.9haについて事業候補者の選定を受けました。
私は荒浜の基幹産業である、農業をこれからずっと後世に紡いでいくこと。それが、1人の農家としてやれることではないかと思っています。
この事業への応募はそれなりに迷い、私はよそ者で、農家になって3年目と経験も信用も浅く、自分が良いのか、やれるのか、住まいの跡地を借りる資格はあるのかと自問自答しました。
自分にできることはなんだろうか。
その答えが、荒浜小学校の近くで、荒浜の農業を紡ぎ、発信し、農村と都市部をつなぎ、農業の新たな担い手を呼び込んで行こう、というものでした。
私は沢山の方々に励まされ支えられています。地域の方とお話ししたり、見たり、聞いたりするほど、「もっとこの街のことを知りたい」と思いました。それも応募しようと思った理由です。いつかまた津波の被害を受けるかもしれない区域ですが、それでも、この街と共に農業をしていきたいと思ったのです。2021年を目処に、現在作付けしている62aと合わせ、約1.5haの土地を作付けすることになります。
今回、選定を受け、ひとまず市の審査を通った一つの節目として、気持ちが引き締まる思いです。
単なる観光地にしたくないというのはきっと、事業者の方々みんなが感じていることではないかと思います。被災した街、だけではない地域の持つ『魅力』を長く紡いでいける事業になっていくのではないかと思います。
一歩ずつ、ですね。
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