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ほぐれ

「弱さで惹かれ合ったっていいのかな」と問うわたしに、「ぜんぜんいいでしょ」と恋人は言った。

春雨と梅雨の合間の爽やかな季節に交際をはじめた彼は不思議な人で、彼と深い話をするたびにわたしは少しずつこころがほぐれていくのを感じている。湯船に浸かったら血液の流れがよくなるように、マッサージをしてもらったらからだがほぐれていくように、彼以前と彼以後のわたしは、こころのやわらかさが違うのだ。

今わたしは37歳だけれど、もともとは自意識のかたまりで破裂しそうな思春期を送った。中学生の時はせっかくシンガポールへホームステイに行ったのに、英語を話している自分を人に見られるのが恥ずかしいからという理由でほぼひと言も話さず帰国した。高校時代はハンドボール部だったのに、人前でシュートを打つのが恥ずかしかった。好きなアーティストのライブには大学生の時にはじめて行ったけれど、もちろん音楽にノってからだを小刻みに動かすことなどできず、じっと音とアーティストの存在を感じるだけだった。

大人になって、「書く」ことを通して少しずつ自分を表現するようになり、がちがちだった自意識からも少しは解放されたつもりだったけれど、37歳になった今、実はまだまだ詰まっていたんだ、むしろ再び詰まりはじめていたんだと最近感じている。

8年前に離婚してひとり親になってから、いやそのだいぶ以前から、わたしはずっと寂しかった。自信のない自分をなんとかしたくて、自分に合う仕事を模索したり地域に根差した活動をしたりしてきたけれど、何かがずっと欠けていた。ひとりで子どもを育てながらそれをやることは並大抵のことではなかったし、その間に少しずつ自分を守る術、傷つかない術を身につけて自分を社会化し、そのためにいつの間にか一見自意識からは解放されたかのような振る舞いを身につけたけれど、それは鎧のように機能していただけなのかもしれない。

でも本来わたしは、弱くて脆くてたよりのない存在で、別にそれでいいんだってことを、そういう存在そのままでいたって人に愛されるし人を愛しうるんだってことを、彼から教わりつつある。

わたしが「人からめんどくさいと思われる」と思って蓋をしてきた部分をおそるおそる開示すると、彼はていねいに向き合ってくれる。口ごもってうまく説明できないわたしの拙い言葉に「うんうん」と耳を傾けてくれたり、わたしの言葉の探索が行き止まりになると、「それってこういうこと?」と言い換えて問いを投げかけたりしてくれる。彼のその態度は、巷にあふれる自己肯定感を上げるためのどんなティップスよりも深くわたしの心の奥底に響いて、凝り固まった部分をほぐしてくれる。愛し愛されるというと大げさかもしれないけれど、わたしも人と心を通わせられるんだってことを、彼が教えてくれた。

鎧のなかった頃のわたしがどうやって生きてきたか振り返ってみると、たとえば当事者会などの場でたくさん泣いて、震える声でつらかった経験を他者に話して、怒りを表明して、怖かったんだってこぼして、悔しいんだと憤って、時には笑って、同じように弱く脆い人たちと共鳴し合ってこころのどこかでつながり合い、少しずつ生の実感を得て歩みを進めてきた。自分を開示すると目の前の人も自分を見せてくれて、その生身の姿をわたしは美しいと思った。取り繕った強さや演出された凄さや虚勢などに惹かれたわけでは決してなかった。心のふれあいがそこにはあった。

人は弱さでつながれるし、だからこそ普段つけている鎧を脱いだってわたしもあなたもそのままで美しいんだってこと。それを彼が思い出させてくれた。

先日、かわいい下着をおそらく十数年ぶりに買った。それには少し勇気を要した。結婚して子どもを産み育てる中でいつの間にか捨ててきた(のかもしれない)「女」の仮面をもう一度身につけることに対する気恥ずかしさみたいなものがわたしにはあったから。仮面は鎧と違って、軽やかで、それでいてわたしの持つ側面の一部を際立たせてくれる存在だ。女の仮面を再びつけることをためらいつつも勇気を出してかわいい下着を買ったわたしは確実に一歩を踏み出したわけで、それは恋人の存在のおかげだ。

彼との付き合いが深まる過程で、自分がどんなふうにほぐれて変化していくのか、それをわたしも彼も楽しみにしている。

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