或るINFJ的、全人類共存のすゝめ

我ながら壮大なタイトルをつけてしまった。
どうしよう。
普段の私はこんな肝っ玉してない。本当に。

INFJ(提唱者)の「提唱力」の凄さについて。〜提唱だけしたっていいじゃないか〜|ら
らさん、本当に勇気をありがとうございます...♪*゚



はじめに

こんなテーマにした目的は、
“いちINFJの人生哲学を書き残す”こと。

noteを始めてからも、やっぱり何か怖くて言い出せなかった。私の考えは、良くも悪くも世間とズレてるから。
受け入れてもらえる自信がないし、
相手によっては傷つけるかもしれなくて。

でも、
ひとりの人間の考えによって常識が覆される
って、長い歴史の中では当たり前のこと。

つまり、
現代の価値観は歴史的に見れば成長を遂げているけれど、完全無欠なわけではない。
構造的欠陥があるのは当たり前。
それなら、たとえINFJでもそうでなくても、
何かしら、社会の構造的欠陥に気づいている人がいるかもしれない。
だからこそ、受け入れられなくて、泣き寝入りなんてもったいない!
気づいているあなたは、それだけで、
じゅうぶん、時代の先駆者でしょう??

それに、
個人的には、いくら内面が複雑だからって、
INFJの価値観が誰にも理解されないのは悲しい。
他のタイプの価値観も受け入れるから、
私たちの価値観も受け入れてほしい。
そして、お互いに長所と短所を補い合える関係になりたい。

それで、
INFJやINTJが持つ、社会のために活かせる長所は、内向直観による深遠な思考なのだと思う。

私たちの使命は“考えること”。
自分たちの苦手な分野を補ってもらう代わりに、私たちは他の多くのタイプが苦手とする、“思考”をして、提供する、それが理想。

INTJは論理的に、INFJは情緒的に。

これが、
とある内向直観の、思考の産物なんだよって

全ての人にそう言いたくて、
知ってほしくて、私たちの思考の産物を。
今この社会のなかで、どれほどの思考が胸の内に秘められ、誰にも理解されないまま埋没しているかを。

だから今回はこの記事で、
INFJの一例としての哲学思考を書くことにしたのです。
(弱音を吐くと、私INFJといっても齢20かそこらの若造で、社会人も経験してない。ここで記事にするのはあくまでも、私の思考実験の途中経過です。
それだけ、念頭に置いてください...。)

人生哲学「共存」「寛容」「他者理解」

これからの世は、多様性の時代で、
全ての価値観が等しく正しい、という感覚が必要。
“私は正しい、かつ、あなたも正しい”

そして、
自分の意見を言うことの重要性ばかりが喧伝される世だけれど、

自己主張と他者理解は車の両輪。
どちらが欠けても、物事は上手く回らない。

私が思うこの真理に、共感してくれる人はどのくらいいるのだろう...?

国会の答弁をイメージしてほしいのだけど、
あの光景、与党と野党の自己主張はあれど、
議論の積み重ねによる研鑽は、果たしてあるだろうか?

私の思うに、
議論の積み重ねが、唯の自己主張に留まるか研鑽に発展させるかを分けるのは、
どれだけ相手の立場や背景を理解し受け入れたうえで、述べているか、だ。

だって、自分と相手は価値観が違うのだもの。
自分の物差しや常識で測った見方をただ主張する行為は、価値観の押し付けでしかない。
(多様性の世において、真っ先に滅ぶべき習慣の筆頭!)
反発心が生まれて当然。そして、その反発心は耳を塞ぎ、異なる価値観をシャットアウトする。
そして、受け入れられなかった側に不満感を残す。

もし、自分の価値観を相手に分かってほしいのなら、
相手の価値観のメガネに付け替えて、相手の土俵に立ち、その人の心に最も響く言葉を的確に選ぶ、
その過程を経ることで、相手の受け入れられやすさは格段に変わる。
(これは他でもないINFJの得意技。たぶん、カウンセラーだの宗教家だの、教祖だの独裁者だのと言われる所以はこれ)

けれど、たぶんこれは、INFJじゃなくても出来る芸当だと思う。(INFJの立場で何言ってんだ)
私の経験談ではあるけれど、
自分の内面があまりにも理解されなくて、それでも周囲に順応しようとして、
自分の内面をひた隠し、洞察に気づかないフリをしつつ、バレないように他人軸に置き換えて洞察をこっそり伝えてあげるから。

(内面が理解されないから、という動機については、嘆願書書けるくらい思うところはあるけれど、ひとまずここでは置いておいて)

ここでの例の根底にあるのは、
①自分の価値観や常識で他人を測らない
②ゼロベースで相手のことを学んでいく
③自分の思ったことを伝えるときに、相手の受け取りやすい方法や言葉を、他人軸で選んでいる

ということ。これは、たとえ他のタイプでも、取り組もうと思えばできることではないだろうか。
(私の驕りだったら本当にごめんなさい...)

さらにここで必要になるのが、「寛容」の精神。
どんな価値観だろうと、どんな性格であろうとも、絶対に否定しない、排除しない。
存在を許容して、広く受け入れる。

否定や排除は、いかなる判断基準(常識やマナー、人倫道徳、または規律など)に反していようとも、少なからず、視野狭窄を引き起こす。
視野狭窄は、内在する構造的要因(一体何が、その人にそんな行動を取らせたのか)を無視してしまう。
その構造的要因は、また次なる社会的排除を作り出す。
否定や排除が、まさにこの悪循環を引き起こす。

私は、日頃のニュースに対して、いつも思う。
不適切発言をした者に対し、謝罪と辞任を半ば強要させれば、問題は解決するのか。
不祥事を起こした人にひとでなしの烙印を押し、業界から追放することが適切な対処なのか。
正直、ただ一時の怒りの感情を納得させるための、有名無実なパフォーマンスにしか見えない。

こうやって、
失敗したら取り返しつかない構造だから、
当事者による原因分析が反映されないし、
己の本能で、保身のため嘘をついてしまう。
(誰だって、失敗を認めれば槍玉に上げられる中で、本当のことなんて話せないでしょう?)

注意深く考えれば、
問題の根本原因や、解決の方法やその意欲を最もよく持っているのは、後悔し尽くした当事者だし、
自分の罪を贖う方法は、謝罪でも辞任でも、命を以て償うでもなく、経験を元により良い未来を作ること。
過ちを隠すことを不誠実だと言うのなら、たとえ恥ずべき失態であっても告白できるだけの寛容な土壌を形成する方が、根本原因ごと解決できる。

ほら、
どんなことでも認めて許すって、とっても大事なことじゃない?
何なら戦争だって、その性格は、国や人種、宗教ごとの「不寛容」だから、
「寛容」していけば、世界平和だって現実的に構想できるのでは、と思ったりもする。

こんなふうに、
内向直観の哲学を世に出すって、本当に世界を進展させることだと思う今日この頃。

言語化はとても難しいけれど、
(私、この記事書くのに1週間かかってます。遅筆。)
リアルタイムの会話で伝えるより遥かに確実だなぁとも思ったり。
(あぁ、文字の発明の偉大たるや!)

できれば、こんな感じの哲学的コンテンツがもっと発展して、私たちの発信した哲学が、他のタイプの方の琴線に触れることがあれば、本当に世界が変わりそう、とか思ったり。

そのためにも、やっぱり言語化の技術を身につけるのは効果的だなぁ。
(実行力の欠如については他のタイプの方にお任せする方が良さそう...💦)

何はともあれ、長文駄文ながらも、
ここまで読んでいただきありがとうございました。
感謝感激雨あられです!!

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