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フードスコーレ校長だより 第7回 2021年「食べる」の再考

こんにちは。フードスコーレ校長の平井です。これを書いているのは2021年12月29日です。いよいよ2021年も終わりますね。昨年までは違和感があったけど、マスクの常備や手洗いうがいがすっかり習慣化した一年でした。

自分のことを書きますと、今年5月に新型コロナ感染症に罹り、ホテルで10日間療養していました。熱も高かったですし倦怠感もあり頭痛もする。ただそれ以上にきつかったのは、自由のない食事です。与えられた食事しか口にできなかったので、おいしいものを食べたい、好きなものを食べたい、という気持ちを抑えるのが本当に大変でした。無料で支給されるお弁当を準備してくれる方たちに感謝しながら、あらためて「食べる」ということに向き合った数日間でした。

柳宗悦の唱えた「民藝」は、生活日用品の中に「用の美」を見出すものですが、それは食の中にもあると思っています。日常の食で感じるおいしさにこそ求める安らぎがある。星を獲得しているお店の高価な料理が悪いのではなく、それぞれに食の役割があり、療養中に口にしたかったのは、普段何気なく口にしているものだったな、というだけのことです。でもこれこそが、現代の「食べる」という行為において注目していくべき要素だと思うのです。

もうひとつ「食べる」という行為で抑えておきたい要素は「自己責任」です。どこで何をどうやって食べるか。これを人のせいにしないで、自分の責任として引き取りましょうよ、ということです。周りで何が起きようとも「俺には関係ない」という利己主義的な考え方は、1990年代に始まった新自由主義が崇められた時代には通じたかもしれませんが、利己主義は「自分の責任を回避する態度」でもあり、社会的な行為が求められる今において、受け入れづらくなってきている考え方だと思います。食べる行為が人と社会にどういう影響を及ぼしているのかを、できるだけ覗いてみようとする意識は大事なことだと思います。

「食べる」という行為はとても社会的で複雑で、倫理やモラルの影響をもろに受けます。これってもう、「食を学ぶ」=「人として生きることを考える」なのではないでしょうか。

食の学び方は、大きくふたつに分かれると思っています。

【認識論】の視点
「おいしい出汁はどうやってひくのか」のように、「食について何をどう知るか」という視点
主に、料理教室・レシピ動画・レシピ本など

【存在論】の視点
「そもそもなぜ人は出汁をひくのか」のように、「私たちの知る食がどのように存在するのか」という視点
主に、大学以上の教育機関(人類学、民俗学、歴史学、哲学など)

これまで食について学ぶというときに、おそらくは認識論の視点での学びが多かったのではないでしょうか。逆に存在論の視点という学びは少なかった。大学以上で専門的に学ぶしかなかった。

存在論は対象の本質をより問うもの。ちょっとむずかしく感じるし、理屈っぽさもあってとっつきにくそうです。ちなみに認識論は「固定された知識の交換」で、存在論は「開かれた知恵を周りと交わりながら自分の中に染み込ませる」というようなイメージがあります。一概には言えませんが。抽象的でこれはもう僕の感覚でしかありません。

これからの時代、認識論と存在論に「倫理観」も加えたこの3つが、これからの食の向き合い方に必要な大きな視点になるのではないかと思っていて、これはもう哲学の話ですね。食を哲学するんです。哲学はすなわち人生観でもあるので、「食を学ぶ」ということは「人を知る」とも言えると思います。食を学ぶもの同士が、ときに交わり、そのとき考えていることを交換し、そのことで互いに変容し、また離れてひとりで持論を逡巡する。そしてまた誰かと交わる。この繰り返しが、「食を学ぶ」にとって理想な環境だなと思い始めています。ちなみにフードスコーレではそういう場を目指していろいろと考えています。

いま私たちが考えなければならないのは、「いかに周りのことを考えて食べるか?」ということ。食におけるこうした社会性のある考え方は、日本では「食品ロス」が注目され始めた2013年あたりから出はじめてはいましたが、この先もっと広まるでしょう。そうした時代でも、やっぱり食に「おいしさ」は求めます。そこは人だから。やっぱりおいしいものが食べたい。おいしくないものは口にしたくない。これは悪いことではありません。

時代にあった倫理やモラルを踏まえながら、食においしさを求める。これがとてもむずかしい。現に私たちはいまそのことを模索しています。食においしさを求めるということは、そこには経済活動がついてきます。どうやったら環境への配慮と経済活動を両立させようかとあちこちの企業が頭を悩ませていますね。このふたつが両立する社会はこれまで誰も見たことがないのだから悩むのは当然です。でも「答えなんてない」で終わるのではなく、間違っていてもいいからやっぱり答えは出した方がいいと思います。間違っていたらまた考え直せばいいんです。それは企業に限った話じゃなくて、私たち個人でも同じことです。

人は「食べる」ということがどういうことなのか、本当の意味で理解していないのではないでしょうか。だから私たちは「食べる」ことを学ばないとならないと思うんです。それは家族のためでも、どこかの地域のためでも、日本のためでも、地球のためでも、まだ見ぬ子孫のためでもいいと思います。いまが食を介して人と社会の関係性を考える局面だからこそです。

あ、最後に大事なことをひとつ。いろんなところで書いたり話したりしていますが、こうしたことを気むずかしく考えるばかりではなくて、できるだけたのしくオープンに学び合えたらいいなと思っています。これを読んでいただいた方の周りでも、食について学び合いたい方がいましたら、フードスコーレに遊びにぜひ誘ってみてください。いつでも大歓迎です!

年末ですので振り返りと言いますか、まとめの意味も込めて、食についていま考えていることを書かせてもらいました。フードスコーレは、2022年にさらにジャンプすることを計画しています。フードスコーレ生のみなさんをはじめ、これまで講師役をやってくれた方々や協力者のみなさんと一緒に、食を学び合う、愉しみ合う場にしていきます!来年もおたのしみに!

2021年12月29日
フードスコーレ校長 平井巧


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