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自分に向き合うということ

今日は自分語り。

幼年期から少年期にかけて、外ではいじめ、内では無関心と過干渉に苦しめられた。どちらかというと、過干渉の方が苦しかったと思うが、それは自己解決の試みの芽を摘まれるからだったと思う。

過干渉に対して、最終的に自分が我慢するという姿勢を養った。なぜなら過干渉する人は自分が不当なコントロールをしているという事を絶対に認めないからだ。
過干渉をやめて欲しいと泣いて頼んだ時などに、収入のないあなたはこの家の居候だからと正当化する事を度々言われたのは良く覚えている。

無関心は、そういう苦しみに助けの手が差し伸べられない事で示された。
いつからか、自分以外の課題に関心を持つ事で、孤独を紛らわせる心に依存するようになった。

社会問題や、経営論に思考を巡らせる時に自由を感じる事ができた。なぜなら皆が関心を持っていて、そこに参加する事で、無関心から免れる事が出来ること、かつ、真っ当なテーマと思われがちなので、思考の干渉を受けづらいからだ。

私は無関心より過干渉が嫌いだ。
過干渉よりは一人になりたいと切に思う。
そのような性向を、非寛容で心が狭いような気持ちになり、そんな自分は良くないとブロックしていた。

依存とは、人生の優先順位を間違えることらしい。
自分の偽りの寛容さや、外部の課題に依存するのを下げ、より自分の課題に向き合えるようにしたい。

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