新谷隼人は、こうやって出来ました②

前回は、私の生まれてから中学を卒業するまでを書かせてもらいました。
サッカーや勉強で高いカテゴリを目指す自分、自分にはない視点を持つ大人たちの観点に憧れ過ごす自分、こういった今のビジネスの観点にもつながる自分の「核」の部分はこの時代に作られていたんだと、綴ることで私自身改めて知ることができたな、と感じました。

同時に、挫折という経験も各カテゴリで感じていく時代でもありました。ここで卑屈になってもおかしくないんですが、また下のカテゴリでやり直すということが出来たのは良かったことですね。ことわざにもある、「鶏頭となるも牛後となるな」を地でいっているような人生です(笑)。

この後は、より今の自分と繋がりの深い、高専時代から社会人になるまでの私の話をさせてもらいたいと思います。よければお付き合いください。


お金を稼ぐ楽しさは、高専時代に知った


中学を卒業した私は、高専に進学することになります。
高専って知っていますか? 正しくは「高等専門学校」の略で、国公立の5年制の学校(商船科は5.5年)です。主に工業系の実践的な技術を単位制で学ぶ、高校と大学が合わさったような学校です。ロボコンに出場する高専などで有名なところもありますね。

私がこの学校を選んだ理由は、理科系の科目が好きだったこともありますが、一番は受験の時期が早かったこと。受験を早く終わらせて、スノーボードに行きたかったんです(笑)。

そんな気持ちで選んだ学校ですが、授業時代はすごく面白かった。ですが、どうしても同級生との雰囲気が合わなかったんです。サッカーやスノボに明け暮れた体育会系の自分とは、人種が違うように思えました。事実、私は3年で高専を辞め、その後1年の浪人を経て大学に進学することになります。

いかにも、適当に選んだ高専生の末路、という感じですが(笑)、ある授業で数字データのまとめを行う、ということに非常に興味を惹かれました。もしかして、コレってお金になるんじゃないか? と思いました。高専生は、技術職に就く人間が多いですが、自分には技術がなくともそういった人たちを取りまとめ、そのデータ=技術総量や供給量を知れば、需要に合わせて売ることができるんじゃないかと。

そこで、私は地元の人脈やネットオークションなどでジャンク品のバイクパーツを集め、それを高専で修理できる同級生に依頼し、直ったパーツを販売する、ということを始めました。高専には無料で使える専門的な工具や作業場が沢山あり、またそれを扱うことができる生徒も大勢います。数千円でジャンクパーツを買い漁り、それを手間賃を払って同級生に直してもらえば、数万円で売ることができる。これに強烈に楽しみを覚えたんです。高専に入ってから二輪免許も取得していた私は、バイク仲間が少しづつ増えていき、彼らからどんなパーツが人気なのか、その理由は?今需要が高いカテゴリーとその理由を遊びの中から情報を集めていました。足りなかったのは、イマイチ情熱を注げなかった直すという技術。それは高専に溢れていたんです。

そうして、中学時代には持てなかったようなお金を得ることになりました。でも、そのお金を使うというのはあんまり趣味ではなかったんですよね。いわゆる「不良学生」な友だちは多かったと思いますが、自分はお酒を飲むわけでもなく(そもそも今も飲めない)、クラブを貸し切ってパーティをする、というタイプでもなかったです。本当に「お金を稼ぐ」ということが楽しかったんです。

唯一、楽しかったのは自分用にもバイクを組み立ててもらって、友人とレーシングをしていたことですかね。ドラッグスター、エリミネイター、SR400など色々なバイクに乗れました。それも、この修理販売でお金があったから。趣味に使うお金は、自分で稼いで手に入れるということを学んだかけがえのない時代でもあります。

高専を辞めたのは、つまらなかったからじゃない


先にも書きましたが、友人関係は上手く作れなかったがある意味で充実していた高専を、私は3年で辞めることになります。でもコレは、ただ周りにいる奴らと合わね〜わ〜、辞めよ!みたいなことではなくて。

高専は、卒業論文を大学のように実施することもあり、図書館が非常に充実していたんです。友人の少なかった私は、よく1人でそこで本を読んでいました。修理を人に依頼している間など、暇なときは結構あったんです(笑)。その時間潰しでいた図書館ですが、ここで読書をする、ということにハマれたのは非常に良かったですね。特に、経営者の書く本を多く読んでいました。時は2000年代前半、ITバブルの時代です。堀江貴文さんやサイバーエージェントの藤田さんがアメーバブログなどを立ち上げた時期で、その人たちの新規性に、また強烈に憧れました。

そうして、「経営者に自分もなりたい」と思うようになったんです。
それには、高専でいるよりも大学に入った方がいいと思い、大学受験に臨むことになりました。そもそも、大学受験をする予定などなかった自分は当時読んでいた経営学の本を書いた教授がいる、という一点のみで、京都の大学の経営学科を目指します。まあ、入ってみたらその教授はもう辞めていたんですが(笑)。

スタートダッシュに失敗した大学で、変わらない稼ぎ方を発掘


こうして、大学に入った私ですが、大学でも全然友達ができませんでした(笑)。当時の感覚ですが、高専をやめて大検を受けて入学した自分は、他の多くの新入生より1個上。一つ下の奴らと楽しく過ごすことなんかできるかよ、と、メチャクチャ斜に構えてたんです(笑)。新入生歓迎合宿もサボり、サークルの新歓活動などにも行かなかった自分は、見事にスタートダッシュに失敗しました!

それでも何も辛くなかったのは、お金を稼ぐ、という楽しみは未だに健在だったから。大学に入った私は家庭教師のアルバイトを始めたんですが、その会社は教師の派遣だけではなく、教材販売もしていたんです。普通、学生バイトはそこには関わらないんですが、その販売をしている社員たちはとてもダルそうに働いていた。そこで、そっちもやらしてほしいと直訴し始めたんです。ここで、初めて「営業」というものに携わることになります。実際にやってみると、自分でアポを取り販売をするということはとても楽しかった。学生の教材ではありますが、それを買うのはその父母たち。現役家庭教師でもある自分は、「わからないことがあれば自分が教えます」を決め台詞にどんどん販売していきました(笑〕。この教材は、小学校から中学校までの9年間を取り扱うため、当然1年生の子を持つ家庭に売る方が9年間の教材を一気に売れるため、そこに狙いを定めガンガン営業をかけて行きました。

売れた利益に対して歩合で給料も伸びるバイトだったため、沢山売りたい。それを行うには1人の足では限りがあるため、関西の学生を中心に販売チームを作り自分はその本部みたいなことをやっていました。パーツ修理の時もそうですが、自分だけでは限界がある時には周りの力を使う、という力はどの分野でも変わらないのだな、とわかりました。

お金を稼ぐ魅力を知って、サラリーマンになる


こうして、お金を稼ぐことに終始した、青春としてみればあまり楽しそうではない学生時代。現在であれば、「学生起業」ということもあったかもしれませんが、当時はそれほど盛んではなかったため、私は普通に就職活動をすることに決めました。時代は、リーマンショックのとき。多くの大手企業が採用を絞ったり見送ったりする中、ベンチャー企業などが活発に活動を始めていく中、私は広告代理店に魅力を感じていました。理由は至って単純で、いろんな人に会えて楽しそうだな、と思ったこと(笑)。

それだけだと、また適当に選んでしまって……という感じですが、もう一つ軸にしていることがあって。それは、経営者になるという夢もあったので、新規事業を開拓する企業を選ぶことでした。

そうして選んで入った、新規事業に取り組む広告代理店は、とんでもなくブラック企業だったのですが(笑)、実はそれを全く悪かったと思っていないんです。
その話は、非常に長くなるのでまた次の記事で書かせてもらいたいと思います。

以上が、社会人になる前の、新谷隼人という人間のエピソードです。上を目指していたようでもあり、すぐに諦めていたようでもあり、そんな中でもすぐ次を見つけてきて、そして飽きて、また新しいことを見つけて……みたいな人生でした(笑)。

一応、経営者の書くノートですので読まれる方は「もっと経営に大切なことなどを書いて!」と思うかもしれません。それでも、まずは自分自身の整理として過去を振り返り書かせていただきました。少しでも、興味を持ってくれたら幸いです。

次からは、新卒で働く上での話や転職など、ビジネスに比重を置いた話をして行きたいな、と思うので、よければそちらもご覧ください!


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