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【小説】テクニカル〈上〉【全2回】

     1

 かれらは『今日の音楽』だったんだ。わかってる、順番に話していくさ。ポオ先生の二百八十歳の誕生祝いのパーティーだった。
 あのパーティーの夜。停電予報は夜十時から。往年のポオ先生の名演奏のレコードが会場には流れていた。おれは二階の老先生の部屋から、客間にしつらえたパーティー会場に戻ってきて、腕でバッテンのマークを作ってみせる。ワトーは肩をすくめた。生徒たちの子どもたちはこんな展開は想定内とばかりの表情で、立食バイキングのごちそうをがっつく。案の定さ、と言うおれにワトーが苦笑いしてシャンパンのグラスを手渡した。
 その時のことだ。廊下に続くドアから、彼女はあらわれたんだ。南方の花のような女だった。
 淡い朱色のヴェールのような、花びらをつらねたようなドレス、ふしぎなほど澄んだ肌、姿態のなめらかさでわかった、ダンサーだ。先生先生、とポオ先生の教室の女の子たちがよりついていく。女性は微笑してこたえる。このひとは近ごろポオ先生のもとで見かけるようになった美しい人物。旅で国外にいたワトーははじめて見るはずだが……。
 先生なんで結婚しないのお? と砂糖菓子のようなワンピースのすそをひるがえして、教え子の女の子たちは彼女のまわりをとりまく。おれはそれをながめながら、シャンパンをすすった。
「わたしとワルツを踊れるひとを探しているの」
 そう言った女性にワトーが近よったのはいきなりである。おずおずと、その前に立った。
「ダンスのお心得は?」と女性、鈴ふるような声。
「大学時代にすこし」
 ちょうど曲の切れ目。躍動するようなピアノとヴァイオリンの協奏曲、三拍子、ワルツ。ひかれるようにワトーは女性へ手をのばした。
 あざやかなものだ。ふしぎな加減をこころえて、彼女は、ついとワトーの指先をとらえ引きよせた。すごい勢いでワトーは片腕に彼女を抱くことになった。ダンスの姿勢が作られた。そこまでがほんの四秒ほどのできごと。
 すさまじい踊り手の、女だった。
 氷の花。
 絵を足で描いて、空間に張りつめられた糸を繰ってあやとりするような。体でかたどった図形を抱き、解き放っていくような。鋭い手の動き、おそるべき、正確なリズム、適格な型、鍛え上げられた超絶技巧――それに、今はだれもやらない『あえてずらす』技法。
 ワトーは曲の最後の音と同時にソファに投げ出された。そして声をあげて笑った。その久方ぶりの笑い。半年ぶりくらいか? ひゅうっと俺は口笛をした。
 女性はひざをまげて一礼してさらりときびすを返す。立食パーティーのサンドイッチやフライドチキンにむらがり直った人びとのなかに彼女はまじり、炭酸水をグラスから飲んでいた。ソファでぼんやりと、宙をみつめてワトーは投げ出されたままの体勢ですわりこんでいる。心が肉体をおざなりにしてそのへんフラフラしてるようだ。彼は言った。
「あの人は? 先生の教室でたしかに見かけたことはあるけど」
 メアリイと呼ばれていると俺は答えた。でも本当は違う名前があるらしいことも。リズム教室で子どもたちを教えてる。でも左手薬指に一度もあとがついたことないって。気に入った? ほおう。いま即答であごが動いたように見えたな。
「メアリイ……あのひと舞踏関係者なの?」
 クラシックダンスとコンテンポラリーのあわせ技みたいな、最近ここで見かけるようになったひとだ。しかし、すごかったなあ。
 そうしているうちにパーティーの客ははけはじめる。停電予報の夜十時にあわせて客は帰るようにスケジュールを組んであった。教室の生徒の少女やむかえにきた保護者、関係者の一部は車で去っていって、俺と、メアリイというあのダンサーと、ワトーは会場に残った。メアリイは後片付けに立食のテーブルへ近寄る。
 ワトーが私のジャケットをひっぱり、俺の耳を自分の口元へむりやり引っ張りよせて言った。
「理性を保てなくなりそうになったら、ぼくを引っ張って家へ連れて帰ってほしい」
 こちらの返事を待たずにワトーはソファから立ち上がる。メアリイ話しかけた。
「なにかお茶でも……いれましょう」
「さっきからひどく眠くて」メアリイは言った。
 ちょうど停電でいずれ暗くなるからと、燭台とろうそくとマッチをテーブルに置いて、椅子を人数分、三脚並べて、彼女は奥からサイフォンとポットと、粉にひいたコーヒー豆を持ってくる。
「コーヒーを飲めなくなる日がきたら許せませんね」
 メアリイは言った。わいたコーヒーをカップに三等分に分けて注ぐ。彼女はのどをそらしてぐいと飲んだ。
 さてワトーは一言も口をひらかなくなった。女慣れしていない男はいつもこうだ、自慢話か尋問みたいな一問一答しかできない。ワトーと会話するたいてい相手の女性が相槌と長話に疲れてその後連絡をとれなくなる。しかし女についてワトーはこう言うのだ。女の話はあっちこっち飛ぶからぼくには堪えきれない、と。
「最近の音楽はあなたにとっては、もの足りないでしょうね」
 メアリイがコーヒーカップのふちの向こうから、ワトーを見た。むずむずと口の端を持ち上げて、
「ばれました?」と彼女は言う。
「現状の音楽シーンあなたのようなダンサーを受け入れないでしょう。でもあなたは見事です」
「ええ」
 彼女の答えには、自信とプライドが感じられた。自分の実力に自負があるのだ。ようやくワトーは話のいとぐちをつかんだ。イキイキと身を乗り出す。
「むかしは自由な演奏や表現が子どもに推奨されていたって、そんなもの、この近未来時代には何の役にも立ちませんよ。ぼくみたいな作曲家はほとんど異端ですからね……ポオ先生の教室の先生なんですね、なにを教えてるんですか」
「正確さ」
 と、彼女は言った。
 学校で求められる、正確な音楽。
「どう思いますか、踊るにあたって、正確さって」
「わたしのダンスをどうご覧になりました」
 ふとワトーはまつ毛をすこし伏せて、ぶつぶつつぶやきはじめた。俺は眉をあげて見せる。メアリイがこちらにちょっとほほえんで来たので、こりゃ隣ののぼせ男に怨まれちゃたまらないと、おれは顔をそらした。彼女はもう一度コーヒーカップを持ち上げながら、
「ご不満というわけ? 正確ってものに」
「かつてすべてのことに、芸術点というものが存在して、さまざまな『心を打つから』という観点での、評価が行われた。そしてそれが常に不正の温床だった。だから、」
「技術点の世界が到来してわたしはとても、うれしいんです。ひとの心を打つなんて、簡単すぎるもの。技術の粋こそむずかしく芸術に真につながる道です」
「あなたのダンスには技術上での『ズレ』というか、ありました」
「ご不快?」
「いえ魅力的です」
「その感性もつひと、ここ三十年見たことない。ここ三十年間はすくなくとも。表現にも金が絡みますから……」
 まさか三十路をこえていようとは。こんなに若くみえるのに。でもワトーはそれに頓着することはない。
「あなたのために曲を書いてもいいですか」
 すっと首をのばしてメアリイは、ワトーにこう答えた。
「無理です」
 冷厳な調子だった。
 それは専門家が専門の判断を下すときの、あの調子。ことばだけ聞いたら、きっと拒絶だと思うだろう。しかし声は別の意味をふくんでいた。ワトーの顔が変わった。おれのよく知る、どこか遠くを見るような顔になったんだ。
「さきほどわたしのダンスを見てくださいましたけど、特殊だったでしょう。曲を作れても奏者がついていけません」
 ふいにワトーが妙な声をたてた。拳を握ってはじかれたように立ち上がる。
「行こう」
 俺だけでなくエミリイの手もつかむ。コーヒーどころじゃない。
 インスピレーションが下ると芸術家はいつもこうだ。

     2

 ポオ先生に、スタジオを借りるとひと声かけにいくと、老人は「案の定」天国にいた。
「ムダだよ、ムダ、さ、みんなおとといの音楽しか弾こうとしない。あーあ聞きたくない」
 二百八十歳のポオ先生は四六時中、暖炉に火を焚く。劣化した体はまともな体温調整すらできないのだ。サイドテーブルには二時間おき服用の薬がビンから広げられて、幾何学模様に並べられてある。こうして一年の三百六十日以上を老人は、ラリって過ごしている。
 借りますね、スタジオ。今まともに動くのは先生のとこしかないんですから。
「サキ! おまえの人でなしが来てる!」
 と言うとポオ先生は高らかに哄笑しはじめた。
 作曲スタジオは防音ブースの中に、太陽電池と蓄電池を備えた電子キーボード、ピアノ、メトロノームなど。今は人にレンタルする場所になっているけれど、そもそもここはポオ先生の根城だった。さっきまで主役不在のパーティーをしていた客間も、二階に設けられた私室や研究室、記念品を飾る秘密の部屋も、この屋敷はポオ先生の城だった。おれは老人の夢を邪魔しないよう、かぶりを振りながら二階を後にした。
 スタジオのブースへ戻ると、ワトーは口の中でぶつぶつ言いながら、いつも持ち歩いている五線譜のアイデアメモ帳におそろしい勢いで鉛筆で書き込みをしている。こうなると雨も風も夜もこの男にはない。音楽の景色の嵐にゆすられるだけ。サキが入ってきたのはそのときだ。
 車で来たらしい。彼女はおれを見てひとつ、うなずいた。なにかを、条件をクリアしたことを確認したような調子で。ワトーより二つ下、三十六歳のこの女性奏者はこのところ体調不良で休んでいたけれど。あらたまって言った。
「話があるんです」
「いま、」
 と彼の言った調子で、いつものサキならわかるはずだ、彼がとてつもなくイラついていると。しかし彼女は引かなかった。
「三十二時間、家でまってたのよ。雨の中来たのよ。三分ちょうだい、早くすむ話だから」
 そしていきなり俺に顔を向け、「立ち合って」と言った。ワトーは反対しなかった。これから修羅場が展開されそうなことは容易に想像された。サキはずいとワトーに顔を近づけると、一言一言はっきりと言ってのけた。
「子どもができたから籍を入れて」
 傑作だ。
 おれは呆れに似た感情におそわれた。でもお祝いのことばを言った。ことわっておくが、心から。サキさんほんとに。おめでとう、予定日は?
 サキはそのどの質問にも返事をしなかった。胎の子の父親のワトーをさぐるように見つめている。
「君とは結婚できない」
「理由は」
「君はもうミューズ〈創作の女神〉になりえない」ワトーはサキだけを見つめて言う。
「そんなことだろうと思った」
 この女がここまで冷静なのにはゾッとせざるをえなかった。女って、こういうものか? いや、おれの十年来の付きあいで知るかぎりのサキは、こういうポーズを、本気でしかねない。爬虫類みたいな冷たさと、かぎりない熱をはらんだ想いと。
「作曲がある」
「見ればわかるわ」
 きっぱりときびすを返して、彼女は隣の部屋へ去っていった。戸が閉じると同時のタイミングで、おれは思わずワトーのえり首近くを片手でつかんだ。
 おれはあなたのノンフィクションのために、あなたをサポートしウィンウィンな関係を築きたいと思ってる。でも今のはない。まるで人間のクズだ
「あとでいくらでもわびる、頼む」
 おれは、手を、離した。ワトーは決然と背を正すと、ピアノと五線譜に向きあった。停電がはじまるアナウンスがある、ろうそくとランプに火をともす。これは今晩帰れないと腹をくくった。それに外は冠水するレベルの雨だ。マンホールが水であばれる音がやかましく聞こえる。
 ワトーは無我夢中で曲にふける。精確なリズム感とテクニカルを組み合わせて表現の形にする技術を全身全霊で駆使して。俺はレコーダーのように隅っこで全身を耳にしていた。
 サキが出ていったのとは別の入り口からメアリイが、遅れて入ってきた。
 作曲家はいきなりメアリイにつかつかと近寄ると、その胸にぴたりと耳をあてた。メアリイはぴくりとしたが、すぐ体の動きを止める。ワトーは手をトントンと振りながら、メアリイの体のリズムを訊いていたのだ。精確に体に律動を刻みつけて、はじかれたようにまた飛び上がると、キーボードにむかって曲の旋律と音律を模索しはじめる。
 しかし探る行動はすぐ終わった。なめらかに音は彼の脳から首と肩と腕をつたって譜面の音符となり、形をとった。
 スランプのクリエイターが、ミューズに出逢ったときの法悦は、たとえノンフィクションライターである俺にだってよく実感としてわかっているつもりだ。この男がたとえ、一見無欲に未婚を通してきたとしても、実態は無欲に禁欲主義者なんかじゃない。ただ、心の中だけでたえまなく恋をしてきたのだ。本人に伝えるプレイボーイ的なオープンさがなかっただけで。いつだって恋の蝶々だったんだ。
 恋は、すごい。
 舌を巻く、という表現がある。俺は舌が引っ込んだ。言葉にするのがえらく、僭越な気がして。音の行間に、すばらしく豊かなゆらぎがあった。ああやっぱり。恋だ。
 このたった一晩の神秘的な夜に、何度も奇跡めいたことはあらわれた。奇跡は、ことばを封じ込める。それでも言葉に起こすのは言葉にたずさわる人間のつとめなのだ。
 ミューズの力はかくも大きく畏れ多い。停電のために電子採譜機は使えないから、採譜は彼自身で行う。五線譜の紙に音符を刻んでいく。
 メアリイは立ち上がると、そっと室外へ出ていく。サキの出ていった方のドアから。おれはそのドアのそばに立ってうかがうことにする。

     3

 さすがに気丈夫のサキも、一世一代の大勝負の場で、古馴染みのパートナーからあんなあしらわれ方をして。鼻をすすって涙をティッシュでぬぐっている。当然だ。おれは隅っこの陰で控えることにした。なんかあったら止めてやらにゃあ。ワトーはほっといても勝手に曲を書く。あっちは別にいい。
 女ふたりのあいだに緊張が走った。サキは、花のこぼれるように美しい若い女を見、メアリイは、締め付けのゆるい服を着てくしゃくしゃのティッシュをつかみ、眼を赤くはらして怒りと悲哀にくれている年上の女を見つめた。
「奥さま?」
 メアリイはサキの姿態とゆるやかな服装から妊婦ということを察しとったのだ。ぼんやりと眼をみはっていたサキはいきなり、
「あのひと、下痢でよくパンツを汚すんです」
 なにかうわ言のような調子だった。そして自分のソファの掛けているのとなりを指差した。メアリイは花びらのようなスカートをさばいて座った。
 俺はすっこんだ。女の対決。ムリだ手に負えない。元ミューズと現ミューズ。しかも、そうこの二人。両方とも音楽家。
「ワトーとはどうして出逢ったんです」サキが言った。
「パーティで」
「ポオ先生の?」
 メアリイはうなずき「あなたは……?」と問い返す。
 サキはストリングス、ヴァイオリンの奏者であり、ワトーの長年のパートナーで、三十六歳になる。それなりに年増の、すこしは美人だけど装うのを忘れると不美人になる、ふつうの容貌の女性。
 サキはぐいと手の甲で涙を押しぬぐうと、立ち上がる。
「わたし、かつて、生涯を音楽だけに捧げるヴェスタに、巫女になりたかったんです。今はだめです。お腹にあのひとの子どもができたから。でもあなたが新しいミューズです。ワトーは言ってた。だって、なんでこの歳まで独身かって? 結婚と子どもを言い訳に創造をやめる女を、わたし心底軽蔑して憎悪してきたからよ。子どもなんかどこにでもいるわ、別に尊ぶべきものもの思えない、ありふれた、なんであんなもののために自分の生涯の使命をあきらめるの?」
「ご結婚されてるんですよね」
「ううん。だからあなたが彼のミューズの後釜に来ても、おどろかない。わたしはあなたを全然知らないけど。でもあなたには……わたしはあのひとの寝起きの無精髭も、おならの臭さやパンツについた下痢うんちも、そういう生々しい汚れまでおもしろかった。でも、わたしにはあなたが水晶でできたお人形さんみたいにみえる」
 外の豪雨の音はこの室内までとどろいてくる。テーブルの上の燭台は明るく、その光の中で二人は顔を見合わせていた。メアリイが口を開いた。そのときの声音は、あえて響きをおさえた弦のようで。
「そうよ。わたしはそうよ。よそのひとを愛するなんて、でもワトー、あのひとわたしのことを、わかってくれて、その上で曲まで成立させようとしている。あの旋律を作れるような――ごめんなさい、わたしは彼のことが好きです」
 あの短かなコンタクト、一瞬のボディタッチ、それでここまで強く愛情を覚えられるものか。いや、要するに、ひと目惚れなのだろう。そういうこともこの世には、ある。
 でも、と、メアリイは妊婦をのぞきこむようにして言う。
「でも子供がいるのに、サキさん……」
「わたしも親が都合のいい女だったから。慣れてる。シングルマザーなんてよくあることよ」
 ほとんどやけっぱちだ。サキのヒステリーの初期噴火。女の怒り爆発のやけくそは、おそろしいものだ。
 しかし次第におれにも見えてきたものが、もちろんあった――これはただの女の戦いじゃない。ようするにこの二人が争っているのは、男じゃないんだ。でも何をどうしたらこうなるんだ。何か頭にキテると思えばいいんだろうか。わからん。
 おれはそうっとワトーのいるスタジオへ耳をくっつけて、様子を聞き取ろうとする。妙な予感がした。スタジオのドアを開けた。はっと二人の女は、こちらを、つまりワトーの旋律のほうへ顔を上げた。
 旋律はとぎれる。
 サキはテーブルの燭台をかかげて、ドアの向こうにあらわれたワトーの顔色を見定めようとした。「どうだろう」と、作曲家が譜面に起こした曲をながめながら、言う。
 サキはつかつかと歩みよる。メアリイも。

     4

 サキが採譜した紙を取り上げる。そしてそれを、視線で焼き尽くさんばかりにして一音符一音符ずつ、眼でとらえて頭で再生していった。テンポや音感をつかむために手をゆらしはじめる。
「ワルツ?」
「音と音のあいだを詰めて、アダージョにならず」
「アダージェット?」
「そう、そう」
「エレキのヴァイオリンじゃないほうがいいわ、弦の関係でノイズになって気持ち悪くなる部分だとおもう、三十一小節」
「伴奏はピアノでいこうと思っているけれど」
「そう、ピアノは音が響きすぎない?」
「そこは探るよ」
 二人のやりとりによどみはなく、あのいさかいが展開されたあとなんて微塵も感じない。棚にはヴァイオリンがある。エレキだけれど、今はこれしかない。手をのばしてそれを取り、軽く弦を締める調整をした。耳たぶにふれて――多くの奏者は耳に埋め込まれたごく小さな機械装置を指でつまんでチューニングをする。準備をはじめた。
 やっぱり二人は理想的なパートナーだ。
 ワトーを説得しなきゃいけない。
 損失だ。
 ワトーはサキの提言を採用して、蓄電池につないだ電子キーボードのスイッチを入れる。鍵盤の音を試し、譜面のチェックをして、怒涛のごとくかつ粛々と進む、テスト演奏の準備。メアリイに――おれは、何がなんだか、とささやいた。すると彼女は涼しく眉をあげる。わたしもよ、と言いたいばかりに。でも彼女の眼には次第に、嫉妬のけわしさが燃えてきた。メアリイはきつく自分で自分の腕をつかむ。みりみり音がするくらいに。
 それほどワトーとサキはしっくりしていたのだ。作曲者とヴァイオリニストは眼をあわせる。ふしぎな共鳴が二人のあいだに通った。俺は思わず立ち上がった。はじまった。
 サキの演奏はいつも、確固たる、くちばしで木の幹を叩くキツツキのような、固いリズムと、香木の煙がふくらむような薫を感じる。ワトーは太い風音のような音をチョイスした。彼の演奏は力の強弱を見事に弾きこなす。巧者でもありそして、音というものの本質を一瞬で会得して応用するという、天の才を彼は持ち合わせているのだ。
 メアリイが、ふう、と前に進み出た。風に背中を押されて前にのめった、というような足取りで。
 即興で彼女は踊った。サキの音をエミリイが体で絡め取って、腕に抱いては開放するように解き放つ。コンテストなら十秒で減点失格の技術のオンパレード……リズムの調和はほとんど無視されて、一般に求められる正確無比さはない。しかもこれは、よく聞くと、精妙なワルツになっている、超絶技巧のズレ。こんな音を今までサキは出せただろうか。こんな曲をワトーは紡げただろうか。そしてこれを舞って活かす、メアリイというダンサー。
 一体なにが起こっているんだ。
 この人びとの姿はあまりにも常軌を逸している。
 超絶。
 卓絶。比類なき――神充。
 曲の長さわずかに三分四六秒。
 拍手の音がひびいた、おれは、拍手した。三人はぱったり腕をおろしていきなりいっせいに、俺を振り返った。
 俺は猛烈に打ち合わせていた両手をとめる。ただ、この曲とこの三人がどうなってしまうのかわけがわからず、手をこまねいて、何かを待っていた。
「どう思う?」
 とワトーが訊いてきたので、思わずすごい大きい呆れ声が出た。
 三人とも意見をうかがうようにこちらを見つめる。そう、どんな芸術もエンドユーザーは素人の鑑賞者なのだ。おれにそのエンドユーザーの声を代表させようとしている。その上こういう人たちは、すごいとか面白いとかいう言葉じゃ絶対満足しない。
 君たちは今夜祝福されているよ、ミューズに。おれもね。すべてのミューズに祝福されてる。でもいろいろ急だよ、急に起こりすぎて。ただ、あんまりだ。
「何が」
 ひとつの曲を、成立していることで、こんなに妙智な調和が生まれることに、深淵がいきなり抱きすくめてきた気がする。こいつらはしかも、この深遠で、歌いながらピクニックしているんだ。
 ここに、人間が、ひとりもいないように感じるんだよ、とささやいた。おれはおそろしい、と付け加える。おれは音楽の専門家じゃない、教えてくれ、おれは何をすればいい。
 ここから先の展開がまったく予想できない。完璧な調和のあとに来るかもしれない、破局は、もしかして……
「そうよ、なぜわかるの」
 メアリイが絶望的に叫んだ。ピイっと妙な音がした。おどろいたおれたちの眼の前で彼女はいきなり空をつかむような身振りをし、ぱたんと仰向きに倒れる。床をかきむしった。
「エリック!」
 全身を痙攣させながら絶叫した。
「エリックを呼んで、ポオ先生よ! ネジ!」

【〈下〉へ続く】

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小説・文学を愛し書く人。webライター。毎日note更新。小説や創作メモやエッセイ、コラムなど。学校ストレスが原因で14歳で持病を発症、本と創作の世界へ。誰よりも私はオワコンたる小説を愛している、どうしようもなく。【※記事本文は無料で読めます!記事末尾に課金チャンスがありますよ】

コメント6件

何とも芸術的な小説🎨
「読む音楽」という新しいジャンルの小説に出会った気がします!
とても面白いので、このまま後半に進みます(*^^*)
yellow3583さん
お読みいただきありがとうございます!!
今回実はお題を頂いての作品で、プロの音楽家の方から「信じてる♡」って言われての執筆だったので、ガクブルしながら考察しながら頑張りました。詳しくは、あとがきで。
後半の「下」もよろしくお願いします!「あとがき」もぜひ応援お願いします!!
大村あつしさん
感謝です!わー!!
大村さんの商業出版のnoteマガジン、第2弾の企画書の記事を読んですごく納得していたところに、コメントするか迷っていたところに、まさか読んで感想までいただけるとは。ぶっ飛びました。
大村さんのnoteも応援してます!
今回、手前味噌ですが、ちゃんと書けたと思っています。わーーい!
「下」にも感想感謝です、今からお返事差し上げに参りますね。「あとがき」もよろしくお願いします!これからもよろしくお願いします!
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