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へなちょこ東京生活 0908


空っぽである。全くの空っぽである。なぜかって、非常に疲れているから。

今日は所属している劇団のサークル活動で朝から晩まで人と一緒にいた。午前中は稽古している様子を見学し(私はスタッフなのです)、午後は舞台装置を完成させた。なかなか大掛かりで舞台らしい舞台であり、観客を入れて公演できないのが非常に残念である。あの舞台の迫力は、そこにあるという印象は、映像では到底伝えられまい。

とんてんかんてん、ビス打ちも上手くなったし、コンクリネイル(コンクリートにトンカチでくぎを打ち込んで舞台装置を固定すること)もうまく打てた。先輩に満面の笑みで「ナイス殺意!」とサムズアップされたほどだ。


大いに笑い、大いにはしゃぎ、そこそこ役に立ったと思う。その分、疲れた。

私はへなちょこである。へなちょこであるが故に、人と関わるとその時の楽しさ度にかかわらず疲れちゃうのです。しかも、今日ご一緒したのは同じ今年度入団なれど皆二つ年上の仲間ばかりだった。対応がむつかしい。びみょ~~~~~なのよ、これが。タメ語でいいよ、と言われて「ええもちろんそんなんわたしゃ気にしませんよなんてったって生意気で面の皮の厚いがきんちょでございますから」という顔をしているが、内心ドキドキだ。


そもそも会話レベルが高い。ひとりは芸大で音響を専攻している二年生で、マルチチャンネルと演劇の関係について語り合ったりもしたが、実際は話を聞いてそれに対して何とかボールを打ち返しているだけなのだ。あんまり剛速球を投げられると即ラリー終了なのだから、始終ドキドキしていた。


嫌なわけじゃない。自分の知らない世界を知るのは面白い。しかし、会話を合わせるのが得意過ぎるのもいかがなものかと思う。だって、なんだか裏切っているみたいだ。あと、そういう喋り方をすると、自分の薄っぺらさがよくわかる。自分の引き出しをひっくり返して回って、なんとか表面だけうまくつくろう喋り方を、私はいつまで続ける気なのだろうか。そう、私は空っぽである。


飛び道具的な話し方をする私は、ある人物にとてもシンパシーを感じる。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』に登場する綿谷ノボル氏である。彼はある種の攻撃一辺倒なロジックを相手に合わせて瞬時に構築し、相手を丸め込むのが得意な男で、主人公から毛嫌いされている。彼に関する記述を呼んだ時、私のことかと思った。ノボル氏の話していることはその場では筋の通ったことに聞こえるが、全部の話を総合すると相手によっては真反対のことを言っていたりする。要するに、自分がない。

コンクリネイルを打ち込みながら、私は考える。私に内蔵されているものは、本当に私なのだろうか。そこには肝臓やら心臓やらの生暖かい臓器が詰まっているだけで、確固たる私なんてないんじゃないか。
そう思ったときの私の胃は、ひどく重い。

こういう時は、好きな曲でも聴いてとっとと寝るに限る。好き過ぎるものが苦手な話は、また今度にでもしようか。

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