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へなちょこ東京生活1203




私は今日も食うことばかり考えている。


このまま、朝まで起き続けて東京駅に歩いて行こうと思っている。課題あるし、腹減ったし。歩いて歩いて歩いて、腹を空かせて汚れて自室にたどり着く。買ってきたコンビニ・スイーツをシャワー上がりに食べて昼まで寝る。昼からは知人の公演がある。

生きていくことはむつかしい。大学の友達は最近コイビトラッシュでなんだか声をかけにくいし、地元の友達は今度岡山まで泊りがけで遊びに行くらしい。ちくしょうめ、私も連れていけ。

こんな夜のしじまに、皆は何を考えるのだろうか。某創作好きの先輩ならば生と死や孤独について考え、難解な詩を書き出すのかもしれないし、コイビトがいる友人たちは愛とは何ぞやと考えたり夜更けまで通話したりするのかもしれない。コースに悩む同学部生もいるだろうし、期待と現実のギャップに苦しみもがく人もいるのかもしれない。

とにかく、夜には夜の過ごし方がある。そんな夜に、私は食うことばかり考えている。


独り暮らしにとって食べ物は常に肉薄した問題だ。朝昼晩って多くないか?一日に三度飯の心配をするとして、一年に365×3で1095回飯の心配をしていることになる。自炊しようものなら腐敗が心配になるし、外食や中食しようものなら懐具合が心配になる。独り暮らしの自炊はかえって高上りなんだぜ、としたり顔で言っていた先輩にはっきりモノ申したい。先輩、それ季節によります。

夏は腐敗の進行が速いから、作り置きの量の調整が難しい。外食中食をしても言い訳ができる。まさか季節によってここまで作り置きの持ちが違うとは思わなかった。冷蔵庫、もっと本気出せよ。

冷蔵庫の本気度という名の性能についてはさておき、コンビニ飯は侮れない。四角いプラスチックの透明な蓋の弁当なんて云うのは少なくて(もちろん生き残ってはいるけれど)レンチンしたら家庭料理と遜色ないようなクオリティになるパックがたくさん売られている。企業努力に敬礼。今日初めてそういうタイプのパックを買ったのだけれど、すごいわね、アレ。しかもキャベツ千切り二食分と肉じゃが合わせて350円以下。外食だと倍はする。やっぱり肉の量は少なかったけど。これからはコンビニパックも選択肢に入れるべきだろう。


それはそうとして、ひとりで食べる飯ってのはかなり寂しいものがある。寂しさを紛らわそうと本を読みながら食べてたら(行儀が悪いという指摘は甘んじて受け入れる)私の中で活字と食事が分かちがたく結びついてしまった。今や夕食は読書タイムだ。もっと食いやすいご飯の御供があっただろうが、どうしてこうなった。

今日読んだのは高野文子の『棒がいっぽん』という短編漫画集だ。今日ブックオフで見つけた。探し始めて早や5年、まさか東京のこんなところで見つけられるとは思っていなかった。もちろん内容も期待に違わず最高だった。フード描写による日常から非日常への転落がすごい!ということで福田里香の『まんがキッチン』で紹介されていたこの漫画。実は私がこの前会誌に提出した『ショートケーキ六つ』はこの漫画の中で唯一知っていた台詞「シュークリーム 八個」が元ネタだったりする。シュークリーム、でリボンの掛けられた箱が映され、八個、で箱の中のシュークリームが透けて見えるのが秀逸だ。まじで最高でした。


私が小説内でやたらと登場人物に飯を食わせるのにはこの『まんがキッチン』の影響が大きい。フードを用いた無言のメッセージ、関係性の現れ、そして不文律。よく考えればご飯は人間の生活の中で最も意識されるものかもしれない。人間は寝るためでも愛するためでもなく、食うために働く。だからフードは最も描写しやすい“不文律”なのだ。うまくいっている家庭は楽しく食卓を囲むし、うまくいっていない家庭は食卓を囲まなかったり、囲んでもおいしそうじゃなかったりする。そもそも、それなりにうまくっている人同士じゃないと、食べ終わるまで同じテーブルを囲むことは難しい。村上春樹の小説に登場するパスタが大抵茹ですぎだったり食べられなかったりするように。

一方で、人はどれだけ美味しいものを食べても、幸福な食卓を囲んでも、完全な幸せを手に入れることはできないのかもしれない。だって今日の晩御飯を食べているときには明日の朝ご飯の心配をしなければならないし、明日朝ご飯を食べている間には昼ご飯の心配をしなければならないのだから。こうして綿々と続く心配の連鎖を見ていると、その先端は宇宙へつながっている気がしてくる。いや、きっと繋がっているのだ、私たちがたどり着けないだけで。


こうして、私は今日も食うことばかりを考えている。


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