【エッセイ】自分で考える
普段から物事を色眼鏡で見ないようにしている。
つもりだったのだがどうやらそうでもないらしい。
気が付かないうちに他人の意見や、社会に影響されて
物事を見ているなんてことは多々あることのようだ。
例えば誰かの為人を知ろうとするとき、
学歴、性別、年齢、出身地。
様々な背景を判断基準にする場合がある。
高学歴の方がまとも
女の方がまどろっこしい。
田舎者は保守的だ。
少しでもこのような考えが頭にあれば
平等に相手を認識しているとは言えないだろう。
悲しいことに私自身、このような偏見や差別意識にまみれている。
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最近「自分で考える勇気」というカント哲学の入門書を読んだ。
自分で考えるとはつまり、他人の意見や世間体に影響されずに、
まっさらな自分の頭で物事を考え意見することを言うらしい。
結局のところ、学歴や性別に関する自分の中の偏見も、
自分自身が作り上げたものではなく、社会一般にそうとされていることだったりする。
となると本当に自分の頭だけで考えられていることは一体どれくらいあるのだろう。
自分が信じ込んでいることが、実は他人が作ったものをなぞっただけだったとすれば、
自分の意見とはいったいどこに存在するのだろう。
以上のようなことを自覚出来たとして、いきなりすべての色眼鏡を外して、
全ての偏見から解放されることは不可能に近いだろう。
考え方の癖はそんな簡単には直らない。
でも「自覚出来たこと」そのものがまずは大きな一歩だと考えたい。
自分の意見が偏ったものかもしれない。
差別的な思考をしてしまったかもしれない。
後からでもそういう風に考えることができたら、
少しずつでも「自分で考える」ことが出来るようになるのではないだろうか。
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世の中を色眼鏡で見ていようが、差別意識や偏見があろうが、
ただ生きていくことはできる。
他人が作った正解を、自分の意見としてなぞって充足感を得ることもできる。
視界に収まる小さな世界での出来事だけが現実だと思っていれば、
どこで争いや飢饉や災害が起ころうと、その人はきっと幸せだ。
でももし、小さな世界で生きることが、無意識の抑圧なのだとしたら、
どうか解放されて欲しいと思う。
カントが言うように「自分で考える」ことは勇気がいることである。
他人に流されず社会に流されず、批判を恐れず、自分で考え、自分のために行動する。
誰かや何かに流されて思考せずに生きることはとても楽だから。
でもそれが出来たとき、きっと世界は今以上に明るくなるだろう。
近くに見えた空の色が、遠く果てしなく広がるだろう。
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長年、無意識の抑圧にとらわれていたのだと、私自身ようやく気が付くことが出来た。
開放にはいたっていないけれど、始めて未来が明るく見えているような気がしている。
手放すことも手にすることも恐れずに、どうか前に進めるように。
自分で考えて生きていきたいと思う。