短編小説「杉谷瑠璃とコージー・ミステリ殺人事件」

短編小説「杉谷瑠璃とコージー・ミステリ殺人事件」

ゆんちゃん

00

杉谷瑠璃は猫のように気まぐれだ。

猫のように周りに愛され友人も多いので協調性があるのかと思いきや、突然一人でどこかへ行ってしまう事がある。そして何故急にいなくなったのかと問う友人に対し、まともな答えを返したのを見た事がない。

それらの行動一つ一つに論理的な理由を追求するのは難しい。少なくとも傍から見ている分には、彼女の言動のほとんどに大きな意味を見出せない。猫が無意味に虚空を見つめ続けるように、杉谷の言動もまた無意味なのだ。

僕は猫が苦手だ。大抵の動物と違って何を考えているか分からないから、何をするかも分からない。何をするかも分からない相手に心を許す道理はない。

だから杉谷も苦手だ。彼女は猫のようなものだから。だから学校でも話をしないし、顔を合わせる機会も持たないようにしている。苦手な相手と無理に付き合う必要なんてどこにもない。

でもここ最近、杉谷とよく視線が合う。授業中、移動教室の合間、HRの終わり間際、登下校時の校門前……本当のよく目が合うものだ。

そのたび、僕は視線を逸らして杉谷を意識の外に押しやる。そしてその時、杉谷が視界の外に逃げていく刹那。彼女がの寂しげな表情がしばらく頭から離れなくなり、罪悪感と自己嫌悪に思考が囚われる。

僕は杉谷が苦手だ。けれども多分、嫌いではないのだろう……

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01

「どうして学校じゃ話してくれないの?」

杉谷が僕を見下ろして、不満そうに問いかけてきた。こちらの反応を窺うような鋭いその眼光は、なるほどやっぱり猫みたいだ。

杉谷瑠璃。僕と同じ学校に通うクラスメイトだ。中学生にして170センチを超える長身で、まるでモデルのような完成された体型と美しい容姿を誇る美少女である。艶のある綺麗な黒髪を背中まで伸ばし、側頭部で二つ結びにした特徴的かつ可愛げのある髪型は、彼女のトレードマークの一つと呼べるだろう。

僕と違って明るく朗らかな人気者で、それゆえに僕との接点は全く無い。おそらく卒業まで言葉の一つも交わさないまま終わっていくのだろうと、少なくとも僕はそう思っていた。

しかし運命は僕と杉谷を引き合わせた。偶然居合わせた休日の映画館で起こった奇妙な殺人事件に巻き込まれながら、僕達は互いを信頼し、窮地を乗り越え、その結果言いようのない奇妙な絆を手に入れた。

だがその絆はあくまで学校の外で得たもの。だから僕は敢えて学校内にまでそれを持ち込まないようにした。杉谷には杉谷の、僕には僕の学校生活があるのだから、それを歪めてまで交流するべきではない。だから僕は杉谷と距離を置いた……否、事件以前と同じだけ距離を取った。それが無難な選択だと思った。

けれどどうやら杉谷の方はそう思っていなかったらしい。

「目を合わせたら逸らすし、話しかけても無視するし、追いかけたら逃げる。さすがに私も傷つくよ? なんでそんなに冷たくするの?」

「ああ……それはごめん」

こう素直に詰め寄られたら、こちらも素直に謝る他無い。別に傷つけるつもりは無いし、冷たくしているつもりも無かったのだが……

「でも杉谷って友達たくさんいるだろう?」

「それがどうしたの?」

「や、だからさ……」言葉を選びながら頭を掻く。「僕と杉谷って、これまで別に接点があったわけじゃないだろう? それなのに突然仲良くしだしたら、なんかちょっと変じゃないか」

「別にそんな事ないでしょ。誰だって最初は赤の他人なんだし」

「そうだけどそうじゃなくて、ええと……」

こちらの言いたい事が上手く伝わっていないらしい。僕としては、人気者の杉谷の取り巻きがいい顔をしないだろうと、そういう風な事を言いたいのだが……話し方が悪いのか、杉谷と僕との感性が違うのか、どちらにしてもこのままでは容易に納得してくれないようだ。そして納得しない限りいつまでもその不貞腐れた態度を解いてくれないだろう。

「つまり、その……」

僕が言葉に詰まっている様子をどう解釈したのか、杉谷は「あ」と得心がいったように両手を合わせ、何やら嬉しそうな楽しそうなよくわからない、とりあえず向けられている方は多少不愉快になるような視線を送ってきた。

「分かったよ。つまり恥ずかしいんだね?」

「……ん?」杉谷の言い分が理解できず、一瞬固まる。「……何が?」

「だから、私の友達と話すのが恥ずかしいんだよね? だから学校にいるとき、私の事を避けるの。私、一人になるのあんまり好きじゃないから、いつも誰かといるもんね。もー、そういう事なら早く言ってよー!」

「ち、違っ……」

「ん? 違うの?」

「い、いや……」

別に僕は人見知りではない。杉谷に比べて友達は少ない……というかいないけれど、それは人見知りだからではなく、単純にコミュニケーションが苦手だからだ。それを人見知りなんて言われると、まるで僕が内気な恥ずかしがり屋みたいじゃないか。そんな評価は承服しかねる。

だが話を蒸し返すのはそれ以上に面倒だ。僕は甘んじてその評価を受け入れる事にした。

「いいよいいよ。こっちこそ気づいてあげられなくてごめんね! 話をするときは誰もいない、二人きりの時で……それでいいんでしょ?」

「……まあ、な」

こうして僕と杉谷との仲は、また一つ複雑になっていく。友達でも赤の他人でもなく、けれどある意味誰よりも特殊な、そんな関係。とりあえずその間に、他者が介在する余地はなさそうだ。

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02

そんな僕らは中学生。卒業後には義務教育から解放され、進路によっては社会を知り、労働を知り、大人を知る年齢だ。

進路について真面目に考えた事はまだない。まだ一年生だし、三年生になる頃までに考えればいいと思っているからだ。いや、それすらも曖昧だ。きっと三年生になったら、漠然と家から近い高校のいずれかを選択し、高校生になったら考えればいいと思うだろう。そして高校に入学したらまた三年生まで先延ばしにし、三年生になったら適当な大学を選択し、大学生になったら考えればいいと思うだろう。

……進路は曖昧なのに、どうして漠然とした選択を取り続ける自分の想像図だけ変に具体的なのだろうか。自分の後ろ向きさ加減に落胆する。

しかし想像図はともかくとして、進路が上手く決められないのは、何も僕だけではあるまい。実際にクラスメイトの連中がどう考えているのかなんて僕には知る由もないけれど、少なくとも具体的な将来設計に基づいた言動をしている奴はいない。もしかしたら僕の目に見えない範囲でそういう努力をしている奴はいるかもしれないけれど、それは間違いなく少数派であり、大多数は僕と同じだろう。

進路を見据えるためには、機会が必要だ。何かに興味を持つためには、そのきっかけとなる出来事が求められるのだ。そしてその機会は"職場体験実習"という具体的な学校行事として、今の僕らに課せられた。

取り決めは単純。学校側が提示したいくつかの職場から興味のあるところを選び、二日ほどそこに厄介になる。具体的な学習内容は全て出先の職場に委ねられており、僕らはそれに従うのみ。学校側の強制力が薄く、自由度の高い行事である。面倒なので好きではないけれど。

職場の選択肢は全部で50個、僕らの学年はちょうど100名。人気の職場に人員が偏らないよう、各々の職場の定員はそれぞれ2名ずつ。それ以上の応募に対しては抽選で決められ、定員から漏れた生徒は二次募集にて別の職場を選びなおす。さらに希望は用紙による提出で、用紙の記入時間は授業中の決められた時間のみとし、生徒間での相談の余地は無い。そうやって仲良しグループで固まらないように行き先が決定するため、同じ職場に向かう相手は基本的に運任せという事になる。

そして運に身を任せた結果、僕は杉谷と同じ職場へ向かう事になったのだ。

冷たい空気が風に乗って枯れ葉を散らし、カーディガン越しに肌に震えを伝える11月。僕と杉谷は電車を乗り継ぎ、見知らぬ街を歩いていた。

「いやあ、すっごい偶然だよねえ! 映画館の時もそうだったけど、私達って不思議な縁があるのかなあ? ねえねえどう思う? 運命的だと思わない?」

珍しい学校行事のためか、杉谷は普段学校で見せるよりも一段高めのテンションではしゃいでいた。学校での杉谷はむしろ物静かに周りの喧騒を楽しむタイプだから、新鮮だ。そういえば前に映画館で会った時もそんな感じだったっけ。今は騒がしい友人達がいない分、バランスでも取っているのだろうか。おかしな奴だ。

「偶然だな」

「むう、意地悪だ……」

杉谷は唇を尖らせ、僕の対応に不満の色を見せる。しかしその不機嫌はすぐに消え去り、無邪気な表情でまた僕に話しかける。単純な奴だ。

「そういえば今日行くとこって、どんな会社だっけ?」

「ええ……」僕は思わず呆れ顔になった。「今から行く企業の事を忘れるなよ……」

「いやあ、あはは!」

「笑って誤魔化すんじゃない」

「えへへ……あんまり楽しみだから、忘れちゃってた!」

「おかしな奴だな。職場体験が楽しみだったら、内容についてもっと興味持つものだろうに」

「あ、そ、そうだよね……! あはは……」

杉谷は妙に照れくさそうに頬を赤らめ、わざとらしく笑いながら頬を掻いた。記憶力の拙さを恥ずかしがるならもっと早いタイミングで照れるべきだろうに……マイペースだなあ。

僕らが歩を進め向かうのは、逆瀬川書店という名の出版社である。別に出版社に興味があるわけではないけれど、他に行きたいところがあるわけでもないので、適当に決めたのだ。

「……杉谷は何で出版社なんだ?」

「抽選で決まったの」

「本当は他に行きたいところがあったのか?」

「うん!」杉谷は目を輝かせながら胸元で両手を握り、楽しそうに上下に振る。「私、劇団に行ってみたかったんだ!」

「劇団?」

「ほら、私演劇部でしょ? 本場の劇を見て、勉強したかったんだよね!」

「それは初耳だけど……杉谷は将来、役者になりたいのか?」

「なりたいものはいろいろあるよ! 高級店のパティシエさんとか、綺麗な花束を作るフラワーアレンジメントさんとか、職業じゃないけど大好きな人と結婚してお母さんになるのも楽しそう!」

「スイーツ屋さんにお花屋さんにお嫁さんか……子どもの夢の定番だな」

「子どもじゃないもん!」杉谷は心外だと言わんばかりに両の手を広げて見せた。「……ほら!」

「いや、何が?」

「こんな大きな子どもいないでしょ」

「……小さくて悪かったな」

「あっ、そういう意味じゃないよ? 小っちゃくても可愛いよ?」

「追い打ちやめろ」

背の高い杉谷に逆恨みな視線を向け、僕は首を横に振った。

「まあ夢があるのはいい事だ」

「そっちは?」

「ん?」

「夢、無いの?」

「……」

当然のようにそう訊いてくる杉谷に、僕は答えを返せなかった。

もしかして僕が知らないだけで、夢ってみんな持ってるものなのだろうか。

夢のための具体的な行動はしていなくても、何となく目標みたいなものを見据えるくらいはしているのだろうか。

僕は……何がしたいのだろうか。

「夢が無いなら、今から考えればいいよ!」

僕が黙り込んでしまったからか、焦ったように杉谷がフォローの言葉を付け加えた。明らかにとってつけた拙い言葉だけれど……彼女の言い分はもっともだ。今からするのは職場体験実習。その中で夢を見つければいい。

見つかるかどうかは分からないけれど。

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03

辿り着いたのは、小奇麗な7階建てのオフィスビルだった。さして都会とは言い難いこの場所にはやや不釣り合いな規模の建物に、僕らは少しだけ面食らった。

オフィスビルの入り口にはスーツを着た男性が立っていた。中肉中背で姿勢が正しく、さっぱりしたシンプルな顔立ちに眼鏡を掛けた真面目そうな印象を受ける人だ。年齢は読み取り辛いけれど、おそらく20代中頃といったところだろう。彼は僕らを認めると、余裕のある笑みで迎えてくれた。

「やあ、君達が職場体験に来た生徒さんかな?」

「え、ええと……」

そうです、と一言で済むだけの返答なのに、口下手な僕は上手く喋れない。目を合わせる事も出来ずにまごついていると、僕の肩に杉谷が優しく手を置いてにっこりと悪意の無い笑みを見せ、僕を庇うようにして一歩前に出てきた。

「そうです、こんにちは! 私は雲雀ケ丘立心学園中等部一年生、杉谷瑠璃と申します。こっちは……」

杉谷は僕を振り返る。僕はたどたどしく頭を下げて杉谷に倣い名乗った。杉谷は満足そうに頷くとまた相手の男に視線を戻し、貼り付けたようなスマイルを浮かべた。

「これから二日間、お世話になります。どうかよろしくお願いいたします!」

杉谷は恭しく頭を下げた。まるで大人のように完璧な受け答えと淀みのない態度に、相手の男も「よく出来た子だなあ」と驚いているようだ。さすがはクラスの人気者、コミュニケーション能力は僕と比べるべくもない。一方僕は早速情けないところを見られてしまった。幸い相手は気にしていないらしく、「今度はこっちが自己紹介しよう」と襟を正していた。

「ぼくは逆瀬川書店社員の野上美男といいます。君達はこれから僕の仕事を通して、出版社について学んでもらおうと思っています。さあ、こっちへ」

野上はそう言って僕らを率いてエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。「うちのオフィスは眺めがいいのさ」何故か自慢げにそう言った。

エレベーターが目的の階に着くまでの間、野上は僕らを値踏みするように見つめていた。杉谷がその様子に眉を顰める。「どうかしたんですか?」

「ああ、ごめんごめん」悪気は無かったらしく、野上はおどけた。「いや、ちょっと気になってね。君達は出版社に興味があるのかい?」

「……と言うと?」杉谷は肯定も否定もしない。上手い話運びだ。

「いや、実は毎年立心から教育実習の話が来るんだけど……ほとんどの子があんまり出版社に興味が無いみたいでね。まあ今の世の中出版界は斜陽産業だし、しょうがないかもしれないけどね……」

「……」

「す、すみません……」

エレベーター内の空気が重苦しくなってしまう。それに気が付いた野上は慌てて「ああ、違う違う!」などと首を振っていた。

「べ、別にそんなつもりじゃなかったんだ……! あまり気にしなくてもいいよ! 別にぼくはそれほど出版界に属する事を誇りに思ってないっていうか、内定貰えたのがここだけだったからっていうか……いやいやぼくは子どもに何を言っているんだ? そ、そうだ杉谷さんって随分背が高いなあ! それにそっちの子は随分……ああいや、失礼!」

「……」

「……」

どうしてこの短時間で2回も身長について言及されなければならないのか。この野上とかいう男、社会人なのにデリカシーが無くて失礼だ。

「なんだかこの人、ちょっと子どもっぽいねえ」

杉谷が小声でそんな事を言う。杉谷に言われたくは無いだろうけれど、確かにそうだ。成人して仕事に就いても、言動や態度まで勝手に大人っぽくになるわけではないという事か。じゃあどうやって大人になるのだろう。このまま大人になったら、僕も野上のようになるのだろうか。あるいは野上くらいの男はむしろましな方なのだろうか。こういう大人を見ると、将来が不安になってくる。

「なるほど、これが職場体験か」

「そういう趣旨じゃないんじゃ……」杉谷が言った。

ちょうどそのタイミングでエレベーターが開いた。広々としたオフィスが僕らを出迎える。

たくさんの机が立ち並び、その上に高そうなパソコンや小難しそうな事が書かれた書類が山のように積み上げられている。壁のいたるところに棚があり、おそらく出版物であろう雑誌や本などが隙間無くぎちぎちに詰め込まれ、悲鳴を上げているようだ。誰かが電話を取っているらしく、機械のように慇懃な口調で堅苦しい言葉を並べ立てている。その他にはパソコンのキーボードを延々と叩く音と空調の低い唸り声しか聞こえない。一見してぴりぴりとした緊張感が漂う、まさに大人の仕事場だった。

しかし気になる事が一つある。それは……

「机の数に比べて、あまり人がいませんね」

折よく杉谷が僕の心情を代弁してくれた。

彼女の言う通り、人が少ない。机はオフィスいっぱいにあり、ゆうに30人分くらいの席があるのに、そこに座って仕事をしているのは10人くらいしかいない。僕らをここに連れてきた野上を入れても、出版社としては明らかに人数不足な気がするけれど……

「他の人はどこにいるんですか?」

そんな僕らの戸惑いに、野上さんが困り果てた表情で答える。

「いやあ、実はこれで全員なんだよ」

「全員? でも……」

「昔はもっとたくさんいたらしいんだよ。それこそこのフロアだけじゃ足りず、下の階3つくらいを占めるくらいね。でもぼくが入社した頃にはオフィスはこの階だけで、人数もどんどん減っていって……」

そう零す野上だったけれど、その言葉は途中で止まった。僕らの様子を見ていた奥の方の机に座っていた人がこちらに向かってきたからだ。

体格がよく、整っているけれど彫りの深い顔つきの渋い中年男だ。見た目30代後半くらいで、苛烈さを思わせる吊り上がった目つきはやや威圧感を受ける。一見した印象は、厳しい上司といったところだろうか。

僕の抱いた印象は間違っていなかったらしく、彼はつかつかと野上の方へ歩み寄ると、「野上ィ!」と、オフィスを震わせるほどの声量で怒号を放った。

「未来ある中学生に不景気な事を言ってんじゃねえ! ただでさえ地味な仕事風景を見せるんだ、せめて担当のお前は明るく楽しく笑ってろィ!」

「ひえっ、す、すみませえん!」

野上は怒鳴られて情けなく萎縮してしまった。しょんぼりと肩を落とすその姿は、先生に怒られた生徒のようで、どこか親近感が沸く。

「お前は覇気が足りねえんだよ」中年男は尚も続ける。「つーかお前、ここに来るまでの間立心の子達に変な事言ってねえだろうな? これ以上不景気な事抜かしてたんじゃあ、説教じゃ済まさねえぞ?」

「そそそ、そんな滅相もない! 僕は別に何も! 斜陽産業だと誇りがどうとか、そういうのは一切! か、勘弁してくださいよお!」

「……」

僕と杉谷は揃って苦笑いを浮かべた。エレベーターの中での会話の事は何も言うまい。

「おっと失礼、挨拶が遅れてしまったな」中年男はようやくこちらを向き直った。「私は湯本健。野上の上司で、役職は係長。主に若手社員の管理と編集、一部作家担当を行っている。これから二日間、野上と一緒に働いてみて、ぜひとも出版社への興味を深めてほしい」

言いながら、湯本が名刺を手渡してきた。僕らはそれを受け取りながら、野上にやったのと同じ調子で挨拶を交わした。その野上は湯本が名刺を取り出した辺りから自分も懐から名刺入れを取り出すも、一瞬考えこんでそれをそのまましまい込んだ。僕らに名刺を渡し忘れたのを怒られたくないのだろう。見なかった事にしよう。

「さて、では早速だが……」

湯本がそう言いかけたとき、彼の懐からスマホの着信音が鳴り出した。どうやら電話が来たらしい。「失礼」湯本はこちらに背を向け、理知的な声で通話を始めた。

「湯本です。はい、そうです。お疲れ様です。ええ、ええ……はい。では本日中に伺わせていただきます。はい……え? いやいや先生、それはいくらなんでも……と、とにかくすぐに伺います! ええ、ええ! ですからどうか、どうかここは穏便に……はい、はい、お願いいたします。はい、はい、すぐに……それでは失礼いたします。よろしくお願いいたします……」

明らかに何か問題が起こったらしく、振り返った湯本は額に脂汗を浮かべていた。もどかしそうに頭を掻き、しばらく何やら思案していたようだが、やがて決断したらしく、静かに「よし」と呟くと、野上に視線を送った。

「野上ィ! すぐに車を回せ! 4人乗れる奴だ!」

「え……?」野上はすぐに反応できず、おろおろとしていた。「係長、何かあったんですか?」

「いいから、急げ! 訳は後で話す!」湯本は僕らを一瞥した。「すまねえが、君達も一緒に来てもらっていいか? 大丈夫、当初の予定とは違うが、有益な職場体験にはなるだろうぜ」

深刻そうな表情でそう言われては、僕らには何も言えない。僕と杉谷は顔を見合わせ、お互い頷く。「分かりました」

職場体験一日目、こうして僕らは急遽車に乗り込んで、どことも知らないいずこかへ向かう事になったのだった。

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04

高速道路を疾走する車の中で、助手席に座る湯本が事の経緯を僕らに話す。

「君達、"盲目探偵シリーズ"を知っているか?」

「……一応」隣で首を傾げる杉谷をよそに、僕は静かに頷いた。「現代日本で一、二を争う人気の本格ミステリシリーズ……ですよね」

「よく知ってるな。じゃあそのシリーズがうちの出版社から出てる事も知ってるか?」

「……いえ、それは」

「まあ、小説の出版元なんて興味無いのが普通だよ」

運転席でハンドルを握る野上が、よせばいいのにそんな軽口を叩いた。案の定すぐさま隣から「野上ィ! 黙って運転してろィ!」などという怒声が飛び、縮み上がった野上の運転で一瞬車体が横に揺れる。やれやれ、安全運転を心掛けてほしいものだ。

「……つまり、原稿を貰いに行くお仕事ですね! じゃあ作家さんのおうちが見られるんだ! なんだか楽しみだなあ!」

杉谷は明るい声色でそう言ったけれど、湯本は気が重そうに首を横に振る。

「……貰えればいいんだがな」

「どういう意味ですか?」杉谷が不思議そうに問う。「もしかして締め切りが近いのにまだ書き終わってないとかですか?」

「それならまだいい。作家に伝える締め切りは実際の納期よりもかなり早いから、意外と調整が効くんだよ。だが今回はそうじゃねえ。原稿はもう書き終えてんのさ」

「うん? 原稿を書き終えてるのに、貰えるか分からない? なんだかなぞなぞみたいな状況ですねえ。まさか作家さんが意地悪して原稿を渡さないって言ってるわけじゃないでしょうし……」

「……残念ながらそのまさかなんだよ」

湯本の言葉に、僕らはいっせいに「えっ」と声を上げた。運転席の野上ですら予想だにしていなかった事態らしく、「な、な、なんでですかっ!?」などと大げさに動揺していた。湯本はそんな僕らの反応を予想通りだといわんばかりに肩を落とし、続けた。

「"盲目探偵シリーズ"の作者は米谷清という人なんだが……知っているか?」

「……詳しい事はあまり」おずおずと僕が答えた。「著書の袖に書いてある作者情報だと、1955年生まれの男性だっていう事ですが」

「そうだ、よく知ってるな。米谷先生はご高齢の作家先生だ。一応言っておくが、別に高齢作家の全員が全員、ステレオタイプな偏屈者とは限らないからな? そこを勘違いしないでほしいんだが……残念ながら米谷先生は、そういう勘違いを抱かせても仕方ない程度にはその枠に当てはまるというか……」

職場体験に来た僕らの前では理性的な態度を取りたいと思っているのか、あるいは担当編集が大っぴらに作家の悪口を言うのは職業倫理に反するからなのか、湯本は言いづらそうに言葉を選んでいたけれど……要するにそういう事なのだろう。

「ちなみに、もしも原稿を貰えなかったらどうなるんですか?」

杉谷は何の気なしに、特に深い事を考えず訊いたのだろう。だが彼女の言葉を聞いた前の二人の表情が露骨なまでに強張るのを見て、ただごとではないと確信した。

「……確か"盲目探偵シリーズ"は、次で最終巻だと聞いてます。最終巻の原稿が重要じゃないわけない……ですよね?」

「……もちろんそうだが、それは君達が気にする事ではない。そうさ、心配はいらん。君達は学習の機会を見逃さず、学校に戻ってしっかり経験を生かす事だけを考えてくれればいい。君達は未来ある若者だからな……」

湯本の声がわずかに低くなる。まるで自分達には未来が無いと暗に語っているようだ。

おそらく原稿が貰えなければ湯本達は責任を追及され、免職になるのだろう。いや、それどころじゃない可能性だってある。野上がたびたび不況を嘆いていたし、社員も減っているらしい。そんな中、人気作の最終話が掲載できないとなったら、当然出版社自体の信用問題に関わる。もしかすると、倒産の危機でさえあるのかもしれない。

……どうやら僕らは、随分ヘビーな場面に放り込まれてしまったらしい。

とはいえ僕にできる事など何もない。せいぜい湯本達の仕事を邪魔しないよう、なるべく目立たず縮こまっているくらいだ。

「私に任せてください! 私が作家さんと仲良くなって、原稿を渡してもらえるようにお願いしてあげますから!」

僕と違って、杉谷はやる気満々らしい。大人の仕事に僕らの力が一体どれほど役に立つものか……

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05

作家歴40年の大ベテラン先生、米谷清はいかにも神経質そうな壮年男性だった。白髪交じりの薄毛に、機嫌の悪そうな細い目つき、年齢のわりにしっかりとした体形といかつい表情……湯本の言っていた通りの偏屈者な外見だ。職場兼自宅の高級マンションの一室から現れた際には値が張りそうなガウンを着こみ、湯本・野上の後ろについてきた僕らにぎろりと値踏みするような視線を投げつけ、「ふん」と馬鹿にしたようにせせら笑い、それ以上何も言わなかった。

米谷は僕らを居間に通した。そこは30帖くらいはありそうな広々とした空間で、ゴシック調の落ち着いたインテリアが大人な知的さを醸し出していた。重厚そうな威厳を放つマホガニーの机を挟んで座り心地の良さそうなソファーチェアが一つずつ並ぶ。米谷はそのうちの一つにどかりと座り、立ちすくむ僕らを射殺すように睨みつけた。その正面には、誰も座らなかった。

「米谷先生!」湯本が早速切り出した。「お電話で伺いましたお話を詳しく聞かせてください! "盲目探偵シリーズ"の最終巻の原稿は……」

「……電話口で話した通りだ」重く静かな声で、米谷は冷たく言い放った。「貴様らにこの原稿はやらない事にした」

「な、何故ですか!? 私どもが何か先生のご機嫌を損ねるような事をしましたでしょうか……?」

「機嫌を損ねたかだと……?」米谷の声に苛立ちが混じる。「わしが機嫌一つで決断をするような軽薄な人間に見えるのか……? もしそうなら酷い侮辱だ……! 貴様らがまさかそこまでわしを軽んじているとは思わなんだわ!」

「いえ、決してそういうつもりでは……」

湯本は額に汗を掻きながら、実に苦しそうに受け答えをする。大げさにリアクションを取りながらなだめておだてて、会話の軌道修正を図るその姿は、野上と違って僕のイメージする真っ当な大人のそれだ。もっとも、彼の苦し気な表情を見ていると、大人になりたいという気持ちは揺らいでくるけれど。

「しかし、それでは先生……」ようやく米谷の怒りを逸らしたところで、湯本が本題を繰り返す。「私どもに原稿を下さらないのは一体どのような理由があっての事なのですか……?」

「ふん、もったいぶって話す事でもないからさっさと言おう。わしが小説家になって40余年……その長い営みの中でも此度の"盲目探偵シリーズ"は最高の出来だと自負している」

「その通りです」

「世間の評価も上々だ。シリーズが続くごとに評価は上がり、そのたびにわしは今まで行きついた事のない至高の領域に足を踏み入れる快感を味わい続けてきた。そしてそれは、最終巻においても同様だろう。だがしかし……だからこそ恐ろしいのだ。もしもこのまま"盲目探偵シリーズ"の評価が最高のまま幕を閉じたら……わしは、もう生涯これ以上の作品を生み出す事ができないのではないかと……そう思ったのだ」

「だから最終巻の原稿を下さらないのですか!? 自分の作品の評価を下げるために……そんな無茶苦茶な!」

「無茶苦茶だろうが何だろうが、やむを得ない事だ」

「し、しかしそれではせっかくの"盲目探偵シリーズ"の人気は地に落ちる事になりますよ! まだ過去の単行本も売れているというのに……」

「それこそ望むところよ」

「ですが……そんな事をしたら信用問題です! 私どもだけでなく、先生の評価も下がりますよ! 次回作の連載の場を貰えるかさえ……」

「その心配はいらん。既に他の出版社と交渉は済んでおるからな」

「な、なんという……」

とうとう湯本は言葉を失くしてしまった。

しかしこの米谷という男、なんて自分勝手な大人だろう。さっきから湯本達出版社側の都合を全く考慮せずにどんどん話を進めていっている。野上とは別ベクトルで大人っぽくない。これまで出版社と協力して作品を作ってきただろうに、それを一方的に切り捨てるなんてひどすぎるではないか。信じられない。作家というのは皆こんなにも自己中心的なのだろうか。心から軽蔑する。

……まあそんな事、到底口には出せないけれど。

「なんてひどい事を言うんですか! 信じられない! 作家って皆こんなに自己中心的なんですか? 心から軽蔑します!」

などと静観を決め込む僕とは対照的に、杉谷が堰を切ったように言葉を並べ立てた。こいつ、僕が考えてた事を全部言いやがった。心でも読めてるのか? それとも僕と杉谷の思考パターンは思いのほかよく似ているのか? もしもそうならちょっとショックだ……

などと落ち込んでいる場合ではない。杉谷の非難は大人達にとっても予想外だったようで、場の注意が一斉に杉谷に寄せられた。野上はただパニック状態で杉谷へ視線を送り、湯本は杉谷が下手な事を言ったらすぐに止めに入れるように準備しているような素振りを見せ、米谷は気分を害したように眉を顰めていた。

「……さっきから気になっていたが、何だお前らは。中学生か何かか?」

「あー、彼女達は職場体験で……」

慌てて野上が補足するも、その遠慮がちな声はあまりに小さく、すぐに米谷の声に搔き消されてしまった。

「わしはお前らなぞ呼んでおらんわ。子どもが生意気に意見するな」

「私達子どもじゃありませんから! ……ね?」

「いや、その……」ね? と言われても困る。頼むから僕に話を振らないでほしいものだ。

「とにかく!」杉谷はかぶりを振った。「米谷せんせい、あなたはわがままです! ひどい事言って皆を困らせないで、素直に原稿を湯本さんに渡してあげたらいいじゃないですか!」

「失礼な小娘どもめ……」米谷が低く唸りを上げる。何故か僕も杉谷と一緒に暴言を吐いた扱いにされている気がする。「わしは意地悪やわがままで原稿を渡さんわけではない。さっきの話を聞いてそれが理解できんか?」

「それくらい分かってます! でも結果的に意地悪になってるじゃないですか! そんな責任感の無い態度は、大人としてどうかと思います!」

「わしは大人だが、大人である前に作家だ。作家として自分の作品に向き合う事が職業倫理上何より優先されるべきだとは思わんか? ひいてはわしが次回作やそれ以降の執筆のために今回やむなく筆を折るのは、作家としてあるべき姿であると!」

「で、でもそれじゃあシリーズを追いかけてた読者さんが……」

「読者だってわしがこのシリーズを最後に挫折して筆を折るよりも、次回作を連ねた方がよほど嬉しかろう」

「ぬぐっ……」

しばらく孤軍奮闘していた杉谷だったが、あえなく言い負かされてしまった。僕はその背を押してやる事さえできない。無力だなあと思いながらも、その一方ではどうせ僕なんて何もできないという諦観が勝ってしまう。

米谷の決意はそう簡単に揺らいだりはしないだろう。下手に出ても駄目、煽っても駄目……そうなるともう手が無い。

言い負かされた杉谷はしばらく考え込むような仕草をしていたけれど、有効な手は思いつかないらしい。そう思った矢先、彼女は突然僕を振り返った。

「な、なに……?」

僕に期待しても無駄だぞ、と言おうとする前に彼女はまた米谷へ向き直ってしまった。そしてさらに一歩前に踏み込んで、米谷をぎろりと睨みつけた。

「なんだ? 何を言っても意見を変える気は……」

「ずっと引っかかっていた事があるんです」

「あ?」

「どうしてせんせいはそんなに自信満々なのかなって。最初は偉い作家先生だから当たり前だと思って納得しようと思ったけど、そうじゃなかった。今はっきりと分かりました……せんせいは偽物なんです」

「なんだと?」

杉谷の言葉で、場の空気が明確に変わった。今まで踏み込んで来なかった、踏み込むべきではなかった領域まで足を踏み入れてしまったかのような、そんな空気。

米谷が杉谷を見る視線が鋭くなる。これまでの相手を軽んじるようなそれとは違う、明確な敵意。大人のそれは僕ら子どものものとはあまりにも異なり、端で見ている僕の身体を震え上がらせるのに足るものだった。

けれどそれでも、杉谷は動じない。

僕と違って正面からその敵意を身に受けているというのに、怯えも恐れもまるで纏っていない。まるで天啓でも得たかのように泰然と淀みなく、水を流すみたいに言葉を連ねる。

「私は本物を知っています。それに比べればせんせいなんて屏風の中の虎も同じです。至高とか難しい事言って自惚れないで下さい。せんせいは筆を折る事を考えるほど大した人ではありませんから」

「……」

ひどい事を言う。さっきまでの身勝手な米谷の発言が可愛く聞こえるほどの暴言暴論に、思わず開いた口が塞がらない。

杉谷は米谷の著作を知らない。少なくとも"盲目探偵シリーズ"は知らないようだった。その時点で批評できる立場にない。だからこれは売り言葉に買い言葉……いや、米谷を挑発して状況を打開しようと画策した結果なのだろう。多少過激すぎる気もするけれど、そうも言っていられない状況だから仕方がない。

でも杉谷の言葉にはどこか真実味がある。米谷を「偽物」と非難するその根拠は全く乏しいのに、その口から出る「本物」には到底嘘と断じる事が出来ない強さがある。まるで具体的な誰かを指しているかのようだ。

「…………」

米谷は黙り込んでしまった。対する杉谷は自信満々で、どこか誇らしげに胸を張っていた。

「本物か……」怒りを堪えたような震え声で米谷が言う。「ぜひとも見てみたいものだな。わしを偽物呼ばわりするほどの器の持ち主が、果たして本当にいるのか……」

「いますよ、すぐそこに」

杉谷はとぼけた口調でそんな事を言いながら、何故か僕の腕を掴んで引き寄せる。「お、おい……」

「この子が本物です、米谷せんせい」

「おまっ……」

言葉にならない声が出た。

杉谷め、僕に一体どんな演技をしろと言うのだ。僕がそんな器用な真似ができるタイプの人間だと、本気で思ってるわけじゃないだろうに……

「な、なんだお前は」自他ともに認める小物な僕の登場に、さすがの米谷も毒気を抜かれたらしい。困ったように僕を見る。「お前が本物だと? わしも馬鹿にされたものだな……」

「いや、あの……」

「何度でも言います。この子が本物です」杉谷は真面目な口調で、何故か少し怒ったように頑として譲らなかった。「せんせい、この間すみれが丘の映画館で起きた殺人事件をごぞんじですか?」

その言葉に、米谷がぴくりと肩を震わせた。思い当たる節がなければその反応はしない。僕と杉谷とが関わったあの事件は、近所に住む住人にはそれなりにセンセーショナルな話題だったのだろう。関係者の実名や素性こそ公開されなかったものの、殺人事件なんてそうそう起こりうるものではないのだから。

「……その事件についてはよく聞いているぞ」神妙な面持ちで米谷がこちらを値踏みする。「公にはその事件を解決したのは警察という事になっているが……実のところ現場に居合わせた中学生二人の助力が大きかったとな」

「そんな事まで知っているのか……」

思わず声を漏らす。新聞やテレビのニュースでは、僕や杉谷の事は全く語られておらず、学校でも注目を浴びる事は無かったのだが……

「ふん、作家をなめるな。取材のために実際の事件を調べる事も多々あるわ。そのために警察から話を聞く事も多い。なるほどお前らが先の事件の功労者というわけか」

「……信じてくれるなら話は早いですけど」

「信じるとも。警察の話だとその中学生の片方はモデルのような長身で、もう片方は小学生かと見紛うほど小柄だったという話だからな」

「…………」

僕は気分を害した。

一方何故か突然褒められた杉谷は「えへへえ……」と照れていた。なんだか納得いかない。

しかし僕の心情は置いてけぼりで、米谷が話を進めていく。

「とにかくお前らの言いたい事は分かった。わしが紙上に生み出した探偵よりも、現実の事件を解決してみせたお前らの方がより本物らしいと……そう言いたいわけだな?」

「はい! ……まあ事件を解決したのは私達っていうか、ほとんどこの子なんですけどね!」

謙遜した事を言うくせに、何故か胸を張る杉谷。対する米谷は難しそうな顔で「ううむ」と二度三度深く唸り、僕と杉谷を交互に見やる。

「主張そのものは認めてやる。わしが描くのはフィクションで、その意味では偽物だ。同時に小童……そう、背の低いお前だ」米谷は僕を指してそう呼んだ。「お前はノンフィクションの人間で、本物だ。なるほどもっともな理屈だ。しかしだからといって偽物が本物に劣るとは限るまい。お前がわしの紙の上の探偵よりも優れていると、どうしてそう思う?」

「それは……」

「まさか『事実は小説よりも奇なり』などという前時代的な考えを持ち出すわけではあるまい。基本的に小説は事実よりも奇なのだ。それでもわしの探偵がお前に劣ると言うのなら、それはどういう理屈なのか具体的に言ってみろ。言えないというのなら、そこを認めるわけにはいかないな。それで、どうなんだ?」

「……」

杉谷は静かに頷いて、僕を振り返った。そして……

「あと……任せていいかな?」

「いいわけあるか」

唐突なバトンタッチ宣言に苦言を呈すものの、杉谷は「いや、私にしては頑張った方じゃない?」などと言って気まずそうに自分の唇を舐めるだけで、これ以上の活躍は望めそうにない。これだけ深く踏み込んでおきながら引き下がるのはあまりにも今更ではないか。

正直言って、米谷の原稿も逆瀬川書店の行く末も僕には興味が無い事だ。だからここでなけなしの勇気を振り絞って米谷と対峙するメリットなんて僕にはない。

しかし杉谷はそう思わなかったのだろう。彼女は善意で一歩前に踏み出し、米谷に物申したのだ。その行為と勇気は褒められこそすれ、責められる謂れなんてあるまい。そしてその勇気を称えるため、今度は僕が力を尽くすべきではないだろうか。

思考がそう着地したと同時に、僕は口を開いた。

「……どちらが優れているかなんて、論じる必要はありません」

「なんだと?」

「……米谷先生がご自身の作った探偵がより優れていると思い、杉谷が僕を探偵としてより優れていると信じている。どちらの主張が正しいかを知りたいなら、確かめてみればいいんです」

「は……ははは、ははははははは!」

突然、米谷が高く笑った。ぎょっとして思わず身を強張らせる僕と杉谷。脇で様子を見ていた野上と湯本は目を丸くしていた。

米谷はそのまましばらく笑い続け、声が収まった時にも実に愉快そうに目元の皺を歪めていた。

「面白い! 小童、お前はわしに推理対決を挑もうと言うのか? この作家、米谷清にか? ふははははは!」

「……あまり僕を見くびらない方がいいですよ」

「逆だ! その途方もない蛮勇、怖いもの知らずの無謀さに敬意を表そうではないか! いやはや気に入ったぞ! お前の澄ました余裕の顔、敗北と苦悶に歪めさせたくなったわ! いいだろう! この挑戦、受けてやる!」

「……先生が負けたら、ご自分を未熟だと認めてください。そして……」

「ああ。"盲目探偵シリーズ"を円満完結させると約束しよう。わしがもしも未熟だったのだとしたら、次回作に更なる伸び代があるという事だからな! だがしかし、もしもお前が負けたら……」

「……ど、どんな要求でも呑みますよ」

僕の言葉に、米谷は実に楽しそうに笑った。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

06

米谷は準備をすると言って奥の部屋に消えていった。残された僕らの中で初めに声を上げたのは湯本だった。

「難しい状況になっちまったな」

「ごめんなさい、余計な事をしちゃいましたか……?」

しかつめらしい表情で眉を寄せる湯本に、杉谷が申し訳なさそうに頭を下げた。しかし湯本は「いや、上出来だ」と申し訳程度の笑みを浮かべる。

「米谷先生と話している限りだと、俺達に原稿を渡さねえのは決定事項だっただろうよ。それを勝負っつーある意味取引に近い形まで持っていけたのは杉谷さん、あんたの功績だ。編集としちゃあ礼を言いてえくらいだぜ」

「えへへ、どうも」

「……もっとも、肝腎なのはここからだがな」湯本は僕に目を移した。「実際のところ、どうなんだ? さっきの話……君がすみれが丘の殺人事件を解決したっていうのは本当なのか?」

「……それは」「本当ですっ!」

僕の言葉を遮って杉谷が前に躍り出た。興奮しながら身を乗り出して両手拳を握りしめてぶんぶんと虚空に振りかざし、嬉々として湯本に語り倒す。

「そうです、この子本当にすごいんです! 私、その時被害者の人と席が隣で、犯人にされそうになってたんですけど……怖い刑事さんから私を庇ってくれて、疑いを晴らすために事件を解いてくれたんですよ! 警察の人達が何人も集まって知恵を絞っても解けなかった事件を、ぱっと簡単に!」

「ほ、ほう……そりゃすげえな」

勢いに押された湯本は若干引き気味だ。けれどその熱量から、杉谷の言い分が嘘ではない事を納得したらしく「なるほどな」などと言って考え込むような仕草を見せた。一方野上の方は単純で、杉谷の言葉をそのまま咀嚼せず飲み込んでしまったのか、目をきらきらと輝かせて僕を見る。

「君、本物の探偵だったのか! いやあ、警察以上の推理力を持つ素人探偵なんてフィクションだけの存在だと思ってたけど、本当にいるものなんだなあ! とにかくこれで、勝負はいただいたも同然だな!」

「い、いや、そこまで過大評価されても……」

困る。非常に困る。

杉谷の語り口はあまりにも僕の活躍を脚色しすぎている。生来のコミュニケーション能力の高さゆえにか、誰もその脚色を疑っていない。本人も悪気は無いのだろうけれど……

確かにあの事件を解決したのは僕だ。でもそれは警察よりも推理力があったという事ではない。結果論で言うとそういう事にはなるけれど、そもそも警察と僕とではスタートラインも見えていたコースもまるで異なる状況だったのだ。

警察は初めから杉谷を疑っていて、僕は初めから杉谷の無実を信じていた。そして真犯人の素性が極めて特異だったために、固定観念を持つ大人が見落としていた盲点に、たまたま僕が気づけただけなのだ。

「……だから推理力にあまり期待されては、その……困ります。杉谷の話運びでこうなってますけど、僕としては、えっと……むしろ編集のお二人の方が戦力になるんじゃないかって……」

「またまたそんな事言ってー! あんまり謙遜しすぎるとただの嫌味だよ?」

「お前は黙ってろ」

「むう……意地悪だ」

不貞腐れる杉谷を放っておいて、僕は野上と湯本を見やる。二人は僕の言いたい事を理解したらしく、神妙に頷いた。

「本来、私達大人の問題だ。君達にも力を貸してもらいたいが、あくまでレクリエーションみたいなもんとして気楽に挑んでくれ。もしも負けた時の事は気にしなくてもいい。米谷先生が何を要求しても、私が対応しよう。どんな結果になろうとも、責任は必ず取ると約束する」

「……お心遣いはありがたいです」子どもとしてはありがたい申し出ではあったけれど、僕はそれを丁重に断った。「でももし負けた時、湯本さん達の会社はその、大変でしょう。他の事に構ってる場合ではなくなると思います。だからその時は僕を見捨ててもらっても構いません」

「しかしだな……」

「……なにより、それは筋が通らない」

湯本や野上がどう思っているかは分からないけれど、米谷の方は探偵としての僕を前提に勝負を仕掛けてきているので、これは僕と米谷の一騎打ちだ。他の三人はあくまで外ウマ……埒外の存在にすぎない。ならば少なくともリスクは僕一人で引き受けるべきだろう。米谷の方だってそうしているのだから。

「……とにかく、勝てばいいんです。負けた時の事は考えないでおきましょう」

僕がそう言ったと同時に奥の部屋から米谷が現れた。「随分と勇ましいな。その態度をいつまで貫いていられるかな」

現れた米谷の手には、手提げ鞄くらいの大きさのスーツケースが握られていた。

「それは……?」

「"盲目探偵シリーズ"最終巻の原稿が入っている。一応、景品の表示くらいはしておいてやらねばフェアではあるまい」

そう言って米谷はスーツケースを開け、中からクリップで止められた原稿用紙を取り出して見せた。用紙に書かれた文言を細部まで読み取るだけの時間的余裕はなかったけれど、散見された用語や文体から、それが間違いなく"盲目探偵シリーズ"の原稿で、しかもまだ未発表のものである事が分かった。

編集の二人が同様の確認をした証として首肯すると、米谷は原稿用紙をスーツケースにしまい込んだ。

「小童」米谷が僕に言う。「お前が勝てばこの鍵とスーツケースをくれてやる。スーツケースの中身は見ての通りだ。わしのプライドに賭けて偽物ではないと保証してやる」

「……僕が負けた時は?」

「負けた時の事は考えないんじゃなかったのか?」

「……」

どうやら教えてくれないらしい。どうせろくでもない事を要求されるのだろうけれど……まあいい、気にしないでおこう。

「……それで? 推理対決とは言っても、やり方はいろいろあるでしょう。何か考えがありますか?」

「もちろんあるとも」米谷は得意げに言う。「なに、単純だ。わしが謎を出題する、お前がそれに挑戦する……それだけだ」

「謎……ですか」

「その謎は先の原稿用紙の内容……すなわち"盲目探偵シリーズ"の最終巻の内容から出題する。だからわしの描く探偵の物語であり、同時にこの世の誰にもカンニングが不可能な謎だ。どうだ、役者不足とは思うまい」

「……最適だと思います」

正しいかたちでの「読者への挑戦」である。僕に不服があるわけもなかった。

「では語ろうぞ! 決して聞き逃すではないぞ? このわしを偽物などと侮った事、公開するがいいぞ小童!」

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07

「初めに舞台設定について簡単に話そう。"盲目探偵シリーズ"主人公、十三戎三助の事は知っているな? 卓越した推理力を誇る全盲の作家で、本名は三郎丸。前作までで26の殺人事件を解決している探偵だ」

「うむ、シリーズ共通の設定だから当然だな」

「さて今回、十三戎は友人を集めてささやかなパーティーを開催した」

「パーティーの参加者は十三戎のヘルパー兼探偵助手役の青年、神田歩作家仲間の関光太郎担当編集の小山田アカネ。事件のたびに間違った推理を披露するへっぽこ刑事、毒島権蔵。そしてライバル探偵のシャーリー富山。十三戎も含めてこの6人だ」

「パーティーの開催地はとある山奥にひっそりと佇む異邦館という名の洋館だ。周囲を断崖絶壁に囲まれ、唯一の通り道は吊り橋が一つだけ。その吊り橋から向こうも深い山々に囲まれており、車無くして出入りする事は不可能。つまりは陸の孤島といったところだ」

「もうお分かりだろうが、最終巻の事件の舞台はこの異邦館だ」

「引き続き出題する謎の説明に移ろう。6人の連中は各々パーティーを楽しんだ。パーティーが終わった頃には夜遅く、異邦館には宿泊設備も整っており、各自が個別に部屋を使えるだけの余裕もあったので、6人はそのまま館に泊まり込んだ。それぞれが眠る時に自室に鍵を掛け、異邦館の玄関にも施錠がなされた」

「だが翌日、十三戎三助はいなくなっていた」

「十三戎の部屋の扉には鍵が掛かっており、その部屋の窓も施錠されていた」

「窓はサムターン錠の上に格子が付いており、人間が出入りする事は出来ない。同じくそれぞれの個室はつまみ式の鍵だが外側に鍵穴がついておらず、同様に内側からしか閉められないタイプだ」

「つまり完全な密室というわけだ」

「さらに言うなら、館の玄関の施錠は内からも外からも普通に開ける事は出来ず、専用の鍵が必要になる。その鍵は十三戎が所持していた」

「つまりは二重密室というわけだ」

「そこで小童、問おう」

「十三戎は如何にして消失し、どこに消えた? そして十三戎を消失させた犯人は誰だ?」

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08

密室トリックとは、推理の題材としてはなるほど王道だ。

しかし……

「……状況の説明が少し荒い気がします。これでは犯人を絞る事すら難しい。最初からもっと事細かに話してもらえませんか?」

「くくく……そうはいかんな」僕の要求に、米谷は首を振った。「詳細に話す事はもちろん可能だ。だがそのためには原稿の中身のうち、出題編までの全てを開示しなければならん。そうすればその部分の原稿の価値が無くなってしまうではないか。賭けの対象物の価値が下がるのは著しく興ざめでなあいか?」

理屈はまあ、分からないでもない。しかしこれではあまりにも……

「……でもこの状況で考えられる可能性は無数にある。その中から一つだけを選ぶなんて、完全に運しだいです。であればアンフェアです」

「なるほどな。ならば問うがよい」

「……え?」

「必要な情報は全て開示すると約束しよう。お前は不足していると思われる情報を一つずつわしにぶつけてみるがいい。その上で推理を組み立てればいい。ああ、それとついでに言っておくが、一つだけを選ぶ必要もない」

「……それは、"お手付きあり"という事ですか?」

「そうなるな。本物の探偵だって、一度も間違えてはならんという決まりがあるわけではないからな」

「ううむ……」

トライアンドエラーを繰り返す方式……"ウミガメのスープ"みたいなものか。思っていたのとは違うけれど、推理の障害になるルールではない。よしとするか。

さて、まずは組み立てからだ。

消えたのは探偵の十三戎三助……

「えっ、探偵が被害者なんですか!?」

今更のように杉谷が驚く。まあシリーズ最終巻なのだから、掟破りというほどの暴挙ではないだろう。ホームズだって一度シリーズ完結のために死んでいるんだし。

とにかく、被害者は十三戎だ。

十三戎は鍵の掛かった密室から煙のように消えている。まずはこの密室の謎を解明しない限り、そもそも物理的に十三戎は室内から消失しようがない。

そしてもし消失できたとしても、館内もまた密室。唯一出入り可能な玄関扉の鍵は当の十三戎が所持していたという事だから、やはり物理的に消失できない。

そして、これが一番難しい問題だけれど……犯人は誰か。現状、犯人を絞り込める要素は一つもない。十三戎を除いた5人の条件は全て対等で、誰がという絞り方はできない。もっとも、これも総当たりで行けばいいだけだけれど。

「質問、いいですか!?」

勢いよく杉谷が手を挙げた。米谷は怪訝そうに眉を顰めながらも、「言ってみろ」と促した。

「犯人は誰ですかっ!?」

「…………」

いや、確かに「情報は全て開示する」って言ってたけどさあ……

「当然ながら、解答に直結する質問には答えない。当たり前の話だが……まさかそんな期待はしていないだろうな……?」

米谷が気分を害したかのように僕と杉谷をぎろりと睨む。いや、僕はそんな事思っていないから。

ともかく、まずは一番初めの密室から狙ってみるか。

「……質問、いいですか?」

「今度は小童か。まともなのを頼むぞ」

「……十三戎の部屋の密室を確認したのは誰ですか?」

「うむ、よい質問だ」僕の問いは著しく下がったハードルを越えたようで、米谷は満足そうだった。「十三戎のヘルパーである神田歩だ。だがあくまで最初に確認したのが彼というだけであって、部屋に十三戎がいない事を確認したのは全員だ」

「……内側から閉まった錠はどうやって開けたんですか?」

「緊急事態だからな。神田が蹴破ったのだ。その騒ぎを聞きつけて皆が集まったわけだ」

「……では神田が鍵の掛かっていない扉を、さも鍵が掛かっていたかのようにして蹴破ったとしても、誰も気が付かないわけですね」

「……その通りだ」

「ちなみに、実際に神田が蹴破った扉の鍵が掛かっていたか否かをここで問うのはありですか?」

「なしだ! 情報の整理はともかく、推理の段階になったらきちんと上から下まで理論を組み立ててから話すんだな。でなければ肝心の推理が単なる確認になってしまうだろう? 興が醒めるのも甚だしい」

「……なるほど」

ともかく、この状況では仮説を立てるのが精いっぱいという事だ。

しかし密室の破り方は一つ確立した。密室は神田がそういう風に演出していただけで、実際は密室ではなかったという可能性だ。推理モノにはありがちな偽密室トリック……これで正当かはともかくとして、一歩前進したのは間違いない。

さて、とりあえずこれで進めよう。十三戎の部屋は密室ではなかった。とすれば、犯人は神田だ。でなければ蹴破る演技をする理由が無いからだ。

では神田はどうやって屋敷の外に十三戎を運んだのだろう。

「……質問。玄関扉の鍵は十三戎が持っていた一つ以外にもありますか?」

「無いな。鍵は複製不可能の代物だ」

「……では、十三戎の持っていた鍵は事件発生後も行方不明のままですか?」

「少なくとも、何者かが十三戎の鍵を奪い使用したという可能性はゼロだ」

「……?」

なんだか妙に引っかかる言い回しだ。「そうだ」の一言で済みそうな回答にこんなにも回りくどい言い方をするなんて不可思議だ。とはいえ、今はその違和感以上のものは読み取れない。一応覚えておくに留めるとしようかな。

「……もう一つ質問が。まさかとは思いますけれど……事件発生後、実は玄関扉の鍵が開いていたなんて事は……?」

「む……ふははは、それは失礼!」米谷は申し訳程度に両手を合わせた。「当然すぎて忘れていたが、もちろん玄関扉の鍵はしまっていた。でなければ密室とは到底呼べぬからな!」

「……それでは、事件発生後残された5人はどうやって館を脱出したのですか?」

「それも言い忘れていたな。館内には個室以外にも何か所か窓がある。窓ははめ殺しなので出入りは不可能だが、割れば館を脱出するための道にはなる。むろん事件発生前後に割れた窓はどこにも無かったがな」

「……なるほどね」

僕が納得して頷くと同時に、「いやいやおかしいじゃないですか」と声を荒げたのは野上だった。

「玄関扉は開けられない、窓からも出られないとなったら、いよいよ不可能犯罪です! こんなの、本当に答えなんてあるんですか!?」

野上は早速意味が分からないといった風に取り乱していた。それを湯本が「うるせェ!」と諫め、静かにさせる。杉谷はよくわかっていないらしく「確かに!」などと納得していた。

「小童、お前もギブアップか?」野上の取り乱し用を楽しむように頬杖をつきながら、米谷が僕に問う。当然僕の答えはノーである。

「ではここで一つ推理をします」

「よかろう、言ってみろ」

「犯人は神田歩。深夜皆が寝静まった後に自室を抜け、十三戎の部屋を訪れ、ノックをするなりして呼び出しました。部屋の鍵を開けて姿を現した十三戎を殺害し、そしてその部屋の窓から外に向かって、その遺体を廃棄したのです。もちろん窓には格子がついていますが、その格子をすり抜けられるくらいに遺体を分解すれば可能でしょう。その後窓の鍵を掛け、何食わぬ顔で就寝。

次の日の朝同じように自室を抜け、十三戎の部屋を訪れます。この時点でその部屋の施錠は当然されていませんが、施錠されたままを装ってノック。返事が無いと言いながら扉を蹴破って皆の注目を集め、室内を改めたのです。

そうすれば二重密室はクリアできます。遺体は神田の部屋の真下にあるので、館の中にはない。米谷先生の説明と矛盾しません。さあ、これが真相ですか?」

推理を並べ立て、僕は米谷を睨みつけた。

なんのことはない。館の密室性はあくまで玄関扉、館内のはめ殺し窓、個室の扉に限定されており、個室のサムターン窓には全く適用されていないのだ。だからそこさえ看破すれば後は自動的に……

「最初はそう来ると思っていた。だが残念ながら違うな」米谷は無慈悲に僕の推理を両断した。「遺体は十三戎三助の部屋の窓の下にはなかった

……まあトライアンドエラーが基本の勝負なのだ、落ち込むほどの事ではない。むしろ情報を与えてくれた事の方が大きい。

「……だったら神田は十三戎の遺体を自室まで運んで、自室の扉から廃棄した……これならどうですか?」

遺体は神田歩の部屋の窓の下にはなかった。ついでに言うと関光太郎、小山田アカネ、毒島権蔵、シャーリー富山の部屋の窓の下にもなかった

「その"窓の下"という文言は、窓の下からかなりの水平面積を考慮に入れても問題ないと考えていいですか? 例えば窓から遺体を投擲した時勢いがついて、窓の直下とは呼べない位置に遺体が飛んで行ったとしても……」

「変わらない。"窓の下"という言葉の定義は、窓から外に向かっていかなる方法を用いて遺体を投擲した場合にも、その範囲を外れる事はない。更に駄目押しで言うと、事件発生後のいずれの個室の格子も壊されてはいなかった

「……」

この線は全滅か。まあ予想していた事ではある。仮にも相手はプロの作家なのだ。その集大成がこんなに単純なトリックなわけがない。

「……では質問に戻ります。館内には6人に割り当てられた個室以外に、はめ殺しではない窓はありますか?」

「無いな。個室以外の窓は全てはめ殺しで、窓を割る以外のいかなる方法を用いてもそこから人間が出入りするのは不可能だ」

「……窓以外の場所ならばどうですか? 例えば台所にダストシュートなんかがあれば……」

「残念ながらそんなものはない。排水口くらいならばあるがね」

「……人間を排水溝に流せるくらいまで粉砕可能な、例えばミキサーのような機器は……」

「そんなものはない。せいぜい厨房にある刃物を使って窓の格子を抜けられる程度に分解するのがやっとだろうな」

「……」

話の方向が酷く猟奇的になってしまった。振り返ると、皆心なしか顔色が悪くなっている気がする。なんだか申し訳ないな。

「しかし……そうなると、返し手が見つからねえな。外へのポータルが全くねえじゃねえか……」

難しそうな表情で静かにそう呟いたのは湯本だった。理知的そうな大人だった彼も、どうやらここで脱落らしい。

「さて小童、わしに頭を垂れるか?」

「冗談じゃありません。推理を聞いてください」

「もちろんだ。さあ言ってみろ」

「犯人は十三戎。十三戎は誰からも殺されておらず、自分で館を抜け出したのです。自室は鍵を開けたまま出て、館からの脱出は玄関扉から。玄関扉の開閉は十三戎が持っている鍵で施錠できる。あとはさっきの推理と同じく、神田が十三戎の部屋の鍵が掛かっているように見せかけて蹴破る。これならどうですか?」

外へのポータルが玄関扉だけならば、玄関扉を使えばいい。そしてその方法はただ一つ……鍵を持つ十三戎自身が開閉を行う事だ。鍵は他の人が使っていない事は既に明言されているのだから、答えはこれしかない。

「ふむ、よくその答えに行き着いたな」米谷は感心したような声を出すも、すぐに首を横に振った。「だが残念だったな。事件後には十三戎三助という生きた人間はこの世のどこにも存在していない。そもそもわしの"盲目探偵シリーズ"はこれまで全て殺人事件のみを扱っており、最終巻も例外ではない。さらに言うと、事件発生後も神田歩、関光太郎、小山田アカネ、毒島権蔵、シャーリー富山は生存している

……なるほど。つまり十三戎の生存説は無いという事か。また別の仮説を立てるべきだろう。しかしもはや考えられる可能性はそこまで多くない。

「……では、こういうのはどうでしょう。途中まではさっきの推理と同じですが、十三戎に付き添って神田以外の誰か……関、小山田、毒島、シャーリーの誰かが一緒に館の外に出ていて、屋外で十三戎を殺害。その後遺体を遠くに捨ててしまう。そうなったらその人は館に戻れませんが……だからといって死ぬわけではないでしょうし、密室そのものは解決できます」

「奇抜な発想だな。だが違う。神田歩が十三戎三助の部屋の扉を蹴破った時、彼のすぐ近くには関光太郎、小山田アカネ、毒島権蔵、シャーリー富山が駆けてつけており、彼らは館の中にいた。もっと言えば事件後館を脱出した時、そこには神田歩、関光太郎、小山田アカネ、毒島権蔵、シャーリー富山が揃っていた。無論他には誰もいないがね

「……それなら、十三戎の遺体は初めから館の中にあったけれど、誰も見つける事ができない場所にあるとか……」

十三戎三助の遺体は館の中のどこにも存在しない!

「くっ……」

ついに僕も攻め手を失い、言葉に詰まってしまった。これは……なかなか難解だ。

「どうした、小童。他の推理は聞かせてくれんのか……?」

米谷が勝ち誇ったような笑みで僕を見つめる。く、悔しい……

「か、考えをまとめるので、少し考えさせて下さい……」

「もちろん構わんよ。だが時間は無限ではない。期限を設けようではないか」米谷は芝居がかった調子で湯本に目を向けた。「おい、小童どもの職場体験ないつまでだ?」

「学園からは明日までと聞いていますが……」

「では期限は明日の朝にしよう。この近所の高級ホテルにお前らの4人の部屋を予約しておいてやる。落ち着いた空間でじっくり腰を据えて推理に励め。朝一番にまた推理を聞いてやる。それでも駄目ならお前の負けだ、小童……いいな?」

僕に異論を挟む余地はなかった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

09

その後米谷の自宅を後にした僕らは、彼が予約した高級ホテルに身を寄せた。米谷が出した問いに対して各々が自分なりの推理を考えた上で改めて翌朝話し合おうと約束して、その場は解散となった。

突然の宿泊に僕も杉谷も困惑したけれど、よく考えれば役得だ。中学生の身分で高級ホテルに泊まる機会なんてそうあるわけでもないので、ここはきっちり楽しむとしよう。

そう思っていたのだけれど……

「どうして僕と杉谷が同室なんだ……?」

釈然としない気持ちでそう呟くも、答える相手はここにはいない。米谷め、僕らを子どもだと思ってやがるな。中学生は子どもじゃないぞ。ちなみに野上と湯本は一人一部屋らしい。ますます釈然としない。

「まあまあいいじゃん。私は一緒の方が楽しいよ!」

杉谷は寝間着になってベッドに寝転がりながら嬉しそうにそんな事を言う。寝る前の状態の彼女は普段の触覚みたいな髪を綺麗に下ろしており、さらさらのストレートヘアーを投げ出していた。普段と違う彼女の姿に、どこか落ち着かない気分になる。寝間着はホテル備え付けの浴衣で、背の高い彼女は成人男性用を着ている。そのせいか胸元が少し危うい。よくそれほど親しい仲でもない僕の前でそんな恰好ができるものだと感心せずにはいられない。その天真爛漫さが彼女のいいところかもしれないけれど。

「……いや、まあいいんだけどさあ」

「そうそう、お泊り会みたいなものだよ!」

「そんなのやった事ないし……」

「あ、じゃあ今度やる?」

「そういう問題じゃないんだよなあ……」

杉谷は僕と同じ空間で眠る事に抵抗は無いのだろうか。

……無いんだろうなあ。

「気楽なやつめ」

「あー、ひどい!」杉谷は心外そうに頬を膨らませた。「私だってちゃんと考えてるんだよ、推理!」

「おいおい、本当かよ。矛盾は無いんだろうな?」

「もちろん! ほんとは明日の朝皆の前で披露するつもりだったけど、今特別に教えたげるね!」

「……」

杉谷の思考は全然読めないし、僕とは違う切り口を見せてくれるかもしれない。そう考えると、何かのヒントになるかもしれない。

「いいよ、話してみな」

「うん! あのね……」杉谷は嬉しそうに語る。「犯人はね、あの6人の誰でもないんだよ!」

「ほう……?」

「探偵さんは夜寝苦しかったからね、部屋の窓を開けておいたの。そしたら窓からリスさんが入ってきたんだ」

「リス?」

「うん! リスさんはすっごくお腹が減ってて、何でもいいから食べ物が欲しかったの! で、そこで気持ちよーく眠ってる探偵さんがいるじゃん? そこをがぶりと……」

「あ、うん分かったもういい」

「まだ推理の途中だけど!?」

不満そうな杉谷から視線を外し、僕は目を覆った。ああ、こいつに頼ろうと思った僕が馬鹿だった。確かに矛盾はしてないけどさあ……

「そんなオチの推理小説が日本でも有数の人気作だったら世も末だろう……」

「むう、意地悪だ……」

「いや、こればっかりは意地悪ではない」

まあ真面目に考えた結果なのだろうし、これ以上は言うまい。

「じゃあそっちはどう思うの? 推理はもう組み立てた?」

「……」

杉谷の問いに、僕は答えられなかった。

正直、八方塞がりだ。あらゆる可能性を追求してみたけれど、これ以上の答えは出ない。僕が今見ている景色からは、到底解答が見出せそうにはない。

だから今、僕に必要なのは見直しだ。推理のスタートよりもはるか以前の領域で、僕は何か見落としているはずなのだ。その何かが何なのかは、まだ掴めていない。

「くそっ……」

かぶりを振っても答えは出ない。落ち着いた空間で足を投げ出してみても、とてもリラックスできる精神状態ではなかった。

そんな僕を見かねてか、杉谷が声を掛けてきた。

「ね、ね、ね、気分転換しない?」

「気分転換? でもやる事が無いだろう。スマホや鞄は出版社に置いていてるから、遊び道具なんてないぞ」

「じゃ、お話しようよ! ね、いいでしょ? 普段全然学校じゃ話してくれないんだもん」

「……いいけど、何を話す?」

「恋バナ!」

「嫌だ……」

恋愛なんて今まで一度もした事がないから、語ることなんて一つもない。そして杉谷の恋愛話を聞くのもなんだか嫌だ。いや、変な意味ではないけれど……なんだかすごく生々しい気がするからだ。

「大体、恋愛なんて語る価値もない。僕は惚れた腫れたで大騒ぎするノリが嫌いなんだよ」

「まあ、そう言ってるうちは子どもだよねえ」

やれやれとしたり顔で肩を竦める杉谷。なんだかむかつくなあ。同い年の相手に子ども扱いされる謂れはないぞ。

「じゃあ杉谷は大人なのか?」

「もちろん! 恋を知ってる大人だよ! いや、恋より先についても知ってるね!」

「な、なに……?」

恋より先……?

なんだ恋より先って。

まさかアダルトなアレか?

子どもが知っちゃいけないやつか?

確かにそれを知っているなら大人だと思うけれど……

「じゃ、じゃあ言ってみろよ。恋より先って何の事だ?」

僕がそう訊くと、杉谷はにまりと苛立たしい笑みを浮かべて立ち上がり、僕を見下ろした。

「うっふっふ……恋より先、それは結婚だよ!」

「……あん?」

「この間、いとこの結婚式に行ったんだよ! そしたらね、もうすごいの!花嫁さんは綺麗だし、式場はすごく綺麗で落ち着いてて、しかもすっごく神聖っていうか真っ白っていうか……とにかくすごいの! もうね、あの雰囲気を知ったら子どもじゃいられないね! 本当にすごいんだから!」

「……とりあえず杉谷が子どもだって事はよく分かった」

なんて語彙力の無さ。こいつ一体何回「すごい」って言ったんだ……?

そんな僕の視線に気まずさを感じたのか、ふと杉谷は僕から視線を逸らし、またベッドに転がってしまった。

「まあ、結婚するまでは子どもかなあ」

「上手い事総括したな」

この総括力だけは認めてもいいかもしれない。言葉での舌戦に限り、杉谷は僕よりはるかに上だ。その点では僕は大人どころか赤ちゃん以下かもしれない。

やれやれ、僕は一体いつになったら大人になれるのやら。

アンニュイな気持ちとともに天井を見上げる。天井には大きなファンが回っていて、延々と僕の視界の中で動き続ける。まるで堂々巡りしている今の僕の思考のようだ。

思考が、ぐるぐる……

「……あれ?」

今、なんだかすごいヒントがあったような……

僕は思考を巡らせた。その思考は輪を描かずに、しなりとまっすぐ突き進む。

「まてよ、そういう事ならあれは……」

思い出す。

米谷の言葉全てを。

穴は無い。けれどそこに付け入る隙はあった。

そしてその隙は、これまでの全ての推理を凌駕した。

「これだ……これしかない」

「どうしたの?」

僕の様子を伺う杉谷に、僕はにやりと笑いかけた。

「どうやら"盲目探偵シリーズ"は良い最終回を迎えられそうだぞ」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

10

僕らは再び米谷の住まいを訪れた。

道中、野上と湯本は僕の組み立てた推理の内容を訊く事はしなかった。元々の予定ではそれを話した上で作戦を立てるつもりだったけれど湯本は「必要ないだろう」と言ってそれを打ち切った。曰く、それほど僕の表情から迷いが消え、確信が見えたからと言っていたけれど……僕の顔はそんなにも分かりやすいのだろうか。

きっとわかりやすいのだろう。僕を迎えた米谷も、僕の表情を見た瞬間昨日までの侮った態度をやめ、緊張した面持ちになったからだ。

「小童よ、お前の推理を聞こう」

「……はい」僕もまた緊張していたけれど、それを振り払うために大きく息を吸い込んだ。「その前に一つだけ質問をしていいですか?」

「いいぞ。まだ聞きたい事があったのか?」

「……ただの確認です。十三戎の失踪は殺人事件ですか?」

「……昨日も似たような事を訊いただろう」

「……それで、答えは?」

「昨日と同じだ。"盲目探偵シリーズ"はこれまで全て殺人事件のみを扱っており、最終巻も例外ではない」

「……なるほど、分かりました」

僕は確信を得た。

やっぱりそうか。このくそじじい、とんでもない変則手を打っていた。危うくその沼に沈められるところだった。

でもその沼の底はもう見えた。あとはそれを言葉にするだけだ。

「まず十三戎がどうやって消失したかという問題ですが……結論を言うと、十三戎は消失なんてしていません

「えっ?」

背後から一斉にそんな声が上がった。それほど僕の言葉が予想外だったのだろう。野上が僕に反論してきた。

「ちょ、ちょっと待ってよ! この事件は十三戎の消失についての話なんだろう? それなのに十三戎が消えていないだなんて、そんな前提が揺らぐような話、許されるのかい? 大体、米谷先生の話と矛盾するじゃないか!」

「……言い方が悪かったです。確かに十三戎三助は消失しました。でもそれは僕らがずっと十三戎三助と呼んでいた人物の肉体が消失したという意味では、全くないんですよ」

「ど、どういう事だい!?」

「"十三戎三助"がペンネームだったというのは、初めから提示されています。それを考慮すれば、消失は非常に簡単です。個人名ではなく作家としての名称であるため、作家の死……すなわち引退によって消す事ができるからです。つまりこの事件は人間の消失ではなく、単なる作家の引退模様を描いた出来事に過ぎないのですよ」

「……」

僕の推理に、一瞬だけ場が静かになった。しかしすぐに背後の野上から反論が来る。

「い、いやいやいや……それはあり得ないでしょ! だってそれじゃあ、殺人事件じゃないじゃないか! これは殺人事件なんだよ? 絶対に誰かが死んでいないといけないんだよ? 作家としての死は殺人じゃない! 本当に誰かが死んでいないといけないんだよ!」

「……落ち着いてください野上さん。そんな事、米谷先生は言っていませんよ」

「え? で、でも……」

「米谷先生はこう言ったんです。"盲目探偵シリーズ"はこれまで全て殺人事件のみを扱っており、最終巻も例外ではない、と。そしてもう一つ、謎は"盲目探偵シリーズ"の最終巻の内容から出題する

「……いやいや、つまり同じ事じゃないのかい? 出題された謎は殺人事件だって……」

「……違いますよ。先生は謎は"盲目探偵シリーズ"の最終巻の内容から出題するとは言いましたが、出題する謎は最終巻の事件に関するものだとは言っていないんです。つまり出題されたこの謎は、最終巻の根幹である殺人事件とは全く無縁の後日談に過ぎないって事です。そう考えればどうです? 納得いくんじゃありませんか?」

今度の僕の問いかけに答えたのは、湯本だった。

「しかし……そうなると一つでけえ疑問が残るぜ? 十三戎三助を引退した主人公……つまり本名三郎丸はその後、どこに行ったって言うんだ? 米谷先生はこう仰ってるぜ。事件後館を脱出した時、そこには神田歩、関光太郎、小山田アカネ、毒島権蔵、シャーリー富山が揃っていた。無論他には誰もいない……って。これってえつまり、三郎丸もいねえって事だよな……?」

湯本の声から不安が漏れる。大丈夫、そこも当然カバーできる。

「もちろん主人公も一緒に館を脱出しています。もちろんその時には先生が仰っていた通り、神田歩、関光太郎、小山田アカネ、毒島権蔵、シャーリー富山しかいませんでしたがね」

「うん……? 結局三郎丸はいねえんじゃ……?」

「ええ、これには僕も悩みました。でも結論を言うと、主人公はここにいます。ねえ米谷先生」僕は矛先を米谷に移した。「敢えて質問させてください。ここで言う神田歩、関光太郎、小山田アカネ、毒島権蔵、シャーリー富山というのは、全部で5人ですか?」

「…………」

米谷は答えない。僕のこの問いを苦しそうに聞きながら、しかしどこか楽しんでいるように見えた。その沈黙を否定と捉え、僕は続けた。

「論理的に考えるなら、こうです。つまり神田歩、関光太郎、小山田アカネ、毒島権蔵、シャーリー富山の中に主人公が紛れ込んでいるんですよ。挙げられた名前は5人でも、実はそこには6人いたんです」

「し、しかしそのどこにも『三郎丸』なんて名前は……」

「三郎丸ではないんです」僕は言った。「主人公の名前は、神田歩です

「な、なにいっ!?」湯本はとうとう驚愕を隠せなくなったらしく、平静を失っていた。「ち、ちょっと待てよ! 十三戎三助の本名が三郎丸っつーのは、既刊シリーズでも何度も出てきた設定だぜ? 米谷先生だってそう認めてたじゃねえか!」

「そうです。確かに先生は主人公の本名を三郎丸だと認めています。でも本名だって変わるじゃないですか」

「変わるって、そう簡単に変わるもんじゃ……」

「そう、簡単には変わりません。だからパーティーまで開いたんじゃないですか。おめでたい祝い事ですからね」

「ま、まさか……」

異邦館で開かれたパーティーは結婚式だったんですよ。新郎、神田歩と新婦、神田歩……旧姓三郎丸歩の入籍を祝う大切な儀式。終わった後の帰り道、そこには神田歩しかいません。たまたま下の名前が同じ二人が結婚したなら、当たり前の話ですよね」

そう、ここだけが分からなかった。

三郎丸という下の名前っぽい苗字、主人公が女性であるという事実が曖昧にされた文章、そして本名が変わる結婚というシステム……これが何より盲点だった。結婚からほど遠い僕にとっては、杉谷の言葉なくしては辿り着けなかっただろう。

あとは出席者の中で、下の名前が新郎・新婦ともに同じになる可能性がある人物をリストアップするだけだ。太郎、権蔵は明らかに男性の名前、アカネは明らかに女性の名前。シャーリーはよく分からないけれど、あまり中性的とは思えなかった。残ったのは歩だけ。消去法は少し辛かったけれど、間違いないだろう。

「一連の状況をまとめてみましょう。

まず殺人事件も失踪事件も起きていません。起きたのはおそらく、主人公が体調でも崩してしまったという程度の、ささやかな騒動でしょう。風邪か何かで主人公は体調を崩し、ベッドから起き上がれなくなってしまった。でも部屋の扉には鍵が掛かっているから誰も入る事が出来ない。だからやむを得ず新郎の神田歩が扉を蹴破ったのです。

事件らしい事件は本当にそれだけ。後は体調が戻った主人公が普通に館の鍵を使って玄関扉を開け、6人で館を後にした……

まとめると本当にこれだけの話ですが……探偵と探偵助手が結婚して終了という纏めは、感動的なエピローグだと言えるでしょう。

さて、先生の出題にきちんと答えましょうか。

十三戎は作家としての引退によって消失し、過去の作家として読者の記憶の中に消えました。そして引退の原因はタイミングから考えて明らかに結婚でしょうから、十三戎を消失させた犯人は、神田歩両名でしょう。どうですか米谷先生、これで合っていますか?」

僕の問いに、米谷はこれまでに一度も見せた事のない大きな笑みを浮かべた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

結論を言うと、勝負は僕の勝ちだった。

けれどその後特別に読ませてもらった最終巻の原稿を確認する限り、僕は勝たせてもらったに過ぎないのだと知った。

さすがはプロの作家、最終巻の異邦館を巡る殺人事件で使われたトリックは壮絶な出来で、僕は予想を当てる事すらできなかった。あの出題はきっと、僕のレベルに合わせたものだったのだろう。

「……所詮子どもだって事かなあ」

僕がそう独りごちると、湯本は「その子どものおかげで助かった」などと言ってくれたけれど……やっぱり手加減されていたのだろう。まだまだ世界は広い。そして僕は未熟だ。

「でも、やっぱりすっごくかっこよかったよ!」

職場体験の帰り道、杉谷は終始興奮した風に僕を褒めてくれた。でも僕としてはあまり嬉しくなかった。次は全力の米谷に挑み、そして勝ちたいと思っていたからだ。

「ええと、あのさ」そんな僕を見かねてか、杉谷は僕に言う。「米谷せんせいだけどさ、別に手加減してたわけじゃないと思うよ?」

「え? でも……」

「だって自分の決断を任せるような勝負だったんでしょ? せんせいだって勝ちたかったに決まってるよ! それでも手加減してるって思うんだったら、それは単に相性じゃない?」

「相性って……」

米谷の出題は僕にとって相性の良い内容だったという事か?

そう考えるなら納得ではあるけれど、なんだか都合の良い解釈に思えてならない。

「……いや、やっぱり駄目だ。正面切って納得できる勝ち方をしたい」

「強情だねえ。でもどうするの? 同じような推理対決なんて、またできるかなあ」

「今度はこっちが出題しないといけないだろうな。米谷の作品に負けないくらいすごい推理小説を作って準備しないと……」

「それって作家を目指すって事?」

「え?」

杉谷に指摘されて驚いた。

ああ、そういえばそういう趣旨だったっけ。

やりたい事を探すのが職場体験だったっけ。

いや、実際作家はどうだろう。米谷の技量は尊敬に値するけれど、米谷のようになりたいかと言われると全然そんな事はない。むしろ大人としては軽蔑するくらいだ。

でも……候補の一つくらいにしてもいいのかな。

「夢が見つかってよかったね!」

杉谷はそう言って僕に屈託のない微笑みを向けた。彼女の姿は何より眩しかった。

「じゃあ……また学校でね」

別れ際、少しだけ寂しそうな表情で杉谷はそう言って、僕に背を向けた。

一歩、二歩、三歩。

杉谷の後ろ姿を見守っていた僕は、唐突に口を開いた。

「待……て!」

声がつっかえて、変な感じになった。でも杉谷は振り返ってくれた。

「どうしたの?」

表情は幼いのに、その姿はどこか大人びていた。

僕も大人になりたかった。

「また学校でな……!」

柄にもなくそんな事を言ったら、次の瞬間僕はすごく恥ずかしくなった。

顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなって、ぽかんとする杉谷に背を向けて走った。

背後から嬉しそうに僕を呼ぶ声が聞こえた。

11月の寒空の下、日が暮れる黄昏の中。

僕は少しだけ大人になった気がした。

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ゆんちゃん
漫画感想……週2~4記事 創作活動……週1~2記事 くらいを目標にします