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さよならについて思うこと

だいすきな人たちが、
時代を、カルチャーを作ってきた人たちが、
解散するまであと少し。
人生について、世界について、考えたいことも言いたいこともいっぱいあるけれど、今は彼らのことだけを考えていたい。そんな1ヶ月がすぎた。

いままでいくつの「さようなら」に向き合ってきただろうか。
私はまだ人生を24年しか生きていない。だからいままで出会った「さようなら」もとても少ない。知っていてせいぜい、祖父母との永いお別れだけだった。

例えば東京事変が解散を発表したときはものすごい衝撃だった。いつもより早歩きで学校に行って、バンドの話をする仲間と「事変解散だって!」と騒いだ。でもなんだか全然自分ごとではなかった。

例えばSMAPが解散したときはとても大きな喪失感の中にいた。生まれた時からSMAPは聞いていたからね。でもどこか、納得してしまったところがあったし、いまでも紅白のトリがSMAPでないことを不思議に感じてしまう。

どちらも、わたしにとってさようならではなかった。

去年の頭、わたしの学生時代の全てが詰まっているライブハウスが閉店した。
そのときは、閉店の日に1日1日と近づいていくのが心底嫌だった。今までと全然違う「さようなら」と対峙した。とにかく嫌だと泣くことしかできなかった。

今私が対峙している「さようなら」はライブハウスとの「さようなら」に限りなく近い悲しみがある、と感じている。

人との「さようなら」と、こういう「さようなら」は何が違うんだろう。

それは「またね」と言えるかどうかの違いだと思う。

わたしは生きていく上で、あしたがあるとは考えないようにしている。基本的に、この世に未来も希望も夢もない。そんなもんはねえ。でも、無いとは言い切れないのも「あした」なのである。

あるかもしれないあしたを生きるための糧を少しずつ積んでいるだけなのだ。

大好きだったおばあちゃん、だいすきだった友達、尊敬していた人、突然この世を去ってしまった人と最後に交わした「さようなら」は、「またね」というきもちが込められている。きっとまた会える。そういう小さな希望は、きっと幸せなものなんだと思う。

わたしは彼らのコンサートを見たことがなかったから、映像の中の彼らを「彼ら」だと思っていた。「実は全員ホログラムでした〜」と言われても別に驚かなかっただろう。だから、解散したとしても、同じものを再現可能だった。極端に言えば「またね」があった。

そこが、ライブハウスとの圧倒的な違いだった。
ライブハウスがなくなったら、再現することはできなくなってしまう。もうあの空気は、あの場所には、いけない。

再現可能なもしかしたらホログラムだった彼らは、本物の人間になってしまった。そうしたら急に、解散するというのは「またね」がないことだということが分かってしまった。

「またね」がないのは悲しい。
ただただ、とても悲しい。
悲しんでいないで、たくさん笑ってほしい、笑っていればなんとかなるから、というのがここ最近の彼らのメッセージだということはわかっている。
それに、わたしは彼らが笑っているのが大好きだ。だから私もいっぱい笑いたい。

だけど、ただただ、悲しい。

永いお別れをする人には、最後に「またね」とは言えない。聞こえないから。
でも、なくなっていくものや人に「言う」ことはできる。ただその「またね」は嘘になる。「また」はない。

「またね」のない「さようなら」を私は全然、
全然知らない。

発表されてから200日くらい経った。
それでもそのさようならとの向き合い方がわからない。わからないまま、ゲラゲラ笑っている。

笑ってれば、なんとかなるから。

V6
愛してるよ

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