
闘いと再生までの10年間
10年前のあの震災で、人生が大きく変わった人は多いでしょう。むしろ、何も変わらなかった人を探す方が難しいかもしれません。特に東日本においては。
ご多分に漏れず、私とオットの人生も変わりました。ただ変わったというより、一度は根底からすべてが崩れました。そりゃもう、見事にガラガラと。
当時の私たちは都内に住み、急激に暴れ始めたオットのアトピーと闘う真っ最中でした。
その経緯は、拙著「アトピーの夫と暮らしています」(PHP研究所)に詳しいです。
アトピーという名の見えない敵
私のオットは、高校生の頃に発症した「成人型アトピー」と、40代になった今も闘っています。
「アトピーと闘う?」と不思議に思う方もいらっしゃると思うので、最初に簡単にアトピーという病気についてご説明します。(ご存じの方は読み飛ばしてください)
アトピーというと「かゆくなる皮膚病」「子供がかかる病気」であるという認識の方がほとんどでしょう。
確かに患者の多くは幼児で、大抵は成長に従って治ります。誤解されがちですが、アトピーは皮膚病ではなく内臓の病気です。幼児の場合、内臓が成長し、発達することで症状が出なくなります。
成人型の場合は、内臓がすでに成長し切った第二次成長後に発症するので、自然に治るということはありません。原因も症状も様々で、治りにくいのが特徴なのです。
成人型アトピーは、特に食べ物にアレルギーなどはなくても、ストレスなどが原因で起こるといわれます。
人間の体の中でも「副腎」はストレスをつかさどるところですが、その機能が上手く行かず、体が熱を持ってだるくて動けなくなってしまうのです。
現在の医療ではアトピーを根治できる治療法は確立されておらず、ステロイドで症状を抑えることが治療の主流となっています。
彼もステロイドを塗りながら高校・大学を卒業し、就職したIT企業ではシステムエンジニアとして激務をこなしていました。
そんな中で30歳の時に私と結婚します。
そして、あの日
私の方は、結婚してすぐにオットがアトピーということは気づいたけれど、それほど深刻にはとらえていませんでした。オットより9歳年上の私は身近にアトピー患者がまだ少なかった世代です。
彼には申し訳ないけど、認識は「アトピーはかゆいだけの病気」程度のものでした。
彼の方は、将来のことや自分のアトピーのことで悩んでいたけれど、家でのほほんとしている妻を気遣って、そんな姿は見せなかったのです。
結婚して2年半程経ったころ、思い悩んだ彼が、脱ステ(ステロイドを絶つ治療法)を始めたことから、否応なしに私もアトピーとの闘いに巻き込まれて行きます。
それはもう、自分の中にあった「アトピー」というものの概念が吹っ飛ぶものでした。
彼は、体中から出る体液でびしょぬれになりながら、毎日満員電車で会社に通い続けました。当時の東京東部の住まいからは、外注先の川崎市まで1時間半、どれほどの苦痛に耐えていたのでしょう。
真っ赤な顔をして、大きな目が腫れて半分くらいになっても、彼は弱音を吐きませんでした。
上記でご紹介した拙著を読まれた方の感想には、「奥さんがえらくて頭が下がる」という声も多いのですが、全然そんなことはないのです。そんなにつらい思いをしている彼に「仕事を辞めていいよ」とは言わなかったんですから。
私は鬼のような妻です。今もあの頃の彼の元へ行って、懺悔したい気持ちにかられることがあります。
アトピーと闘う日々が2ヶ月ほど続いたときに、運命の日がやってきました。2011年3月11日。
その日はたまたま、彼は朝からしんどいと言って会社を休んでいました。
二人して昼近くに起き、いつもの砂糖なし酢入りの「すうどん」を作って食べようとテーブルに着いた瞬間、それが起きたのです。
それまで経験したことのない、すさまじい揺れ。
慌ててテレビをつけると震源地が東北だと知り、驚愕しました。
この日、彼の体調が悪かったのは、虫の知らせかもしれないと思いました。もし普通に会社に行っていたとしたら。。。常駐先で帰宅困難に陥っていたでしょう。
彼は他の人のように1時間も2時間もかけて帰宅する体力はなく、大げさでなく途中で行き倒れていたかもしれません。この時そう感じたことは、後に東京を離れることを決めた大きなきっかけとなりました。
私たちの10年は闘いの10年
震災後の東京のストレスフルな日々は、まだ記憶に新しいことでしょう。そんな中で通勤することは、彼にとっては、むき出しの傷口をさらすようなもの。
一度はステロイドを再使用したりもしたのですが、このままではいけない、悩んだ末、ようやくここで、会社を辞める決意をしました。すべてをいったんリセットすることになったのです。
当時の私はフリーのイラストレーターといってもほとんど収入がなく、彼が会社を辞めたら都内で生活をしていくことは不可能でした。一旦オットの実家の函館市か、私の実家の名古屋市のいずれかに戻る以外に道はありません。
もちろんそのまま実家に居座るつもりはなく、経済的基盤を立て直したら、再度東京に戻る予定だったのです。
くわしくは後述しますが、私自身は自分の実家よりオットの実家のある函館に住みたいと切望していました。わざわざ義実家に住みたいなんて物好きな、と思う人もいるでしょう。
しかし義母の「函館に戻っても仕事がないよ」という言葉が決め手となって、私の実家に戻ることになりました。
私の実家から写真の専門学校に通い、カメラマンとして独立する、というのがその時考えた未来の青写真です。(なぜカメラマンなのか、というのは長くなるので、ここでは割愛します。詳しくはこの記事をごらんください)
同居することになった私の母親が、まぁまぁ恐ろしい毒親で。それが私が自分の実家に戻りたくなかった理由です。オットにとってはある意味アトピー以上に苦難の日々が始まりました。
軍隊か!というような母の締め付けの日々。毎日毎日何かしら言い争いが起きている中で、アトピーが治るはずもありません。
彼は予定通り写真の学校に通いましたが、卒業目前の2013年末になって、再度悪化して寝込んでしまうのです。
2011年頭から始まったアトピーとの闘い。2年でも長い、なかなか治らないと焦っていました。
2年どころか、10年経ちましたが、アトピーは完治したとは言えません。
その間に、彼も私も幾度となく死を考えました。それでもこうして今生きているのは、まさに「生かされている」という意味なのだと思っています。
学校を卒業して7年が経ち、お陰さまで彼はカメラマンとして活動の場を広げることができています。実家からも無事独立を果たせました。
けれどそれでも、本当に健康体の人に比べれば、制約だらけです。
撮影の前日には絶対に遊びの予定は入れませんし、連続して撮影の仕事を入れることもありません。お酒はほとんど飲みません。
コンディションを整えて仕事に向かうためには必要なことなのです。クライアントに迷惑をかけたり、自分にとって不本意な仕事上のミスだけは絶対に避けねばならない、と考えているから。
どんなに楽しく笑っているその瞬間にも、アトピーの影は消えることはありません。
私たちの10年は、まさにアトピーとの闘いでした。
死にながら生きているような病気
彼とアトピーとの関係を10年見続けてきて、私が感じるのは、「死なないからと言って楽な病気なんて無い。どんな病気も辛い」ということ。
今まさに、死の床についてらっしゃる方からは叱られてしまいそうですが、それでもそう思います。
完全に治る可能性の低いアトピーのような病気が重症化するということは、「静かに死にながら生きている」ようなもの。
私が彼ならば「死んだほうがマシ」だと、思うこともあります。それでも彼が死なずにいるのは、たぶん私が生きているからでしょう。
自分を信じて支えてくれる存在がいたら、簡単には死ねません。
彼を縛っているのは、外ならぬ自分なのか?と悩みながら過ごした10年。
私は健康だけが取り柄で、よく眠った朝は清々しく目覚めます。若い頃よりは体調がイマイチのことも増えましたが、それでも調子の良い時はどこも痛くないし、しんどくもないです。
でも彼や、アトピー患者は違うんです。
重症のアトピー患者さんの毎日って、生きてるだけで「闘い」なんです。いつ大きく体調が崩れるかわからない。
健康な人のように、清々しい気持ちで朝を迎えることも、ほとんどないのです。
朝起きたら、何となくだるくて、動くこともシンドイ。
それなのに、「死なないから平気でしょ」「かゆいだけでしょ」と言われ、ほとんど「病気」だとすら扱ってもらえない。
悲しいけれど、それがアトピー患者の実情です。
その現状に一石を投じたくて書いたのが、拙著「アトピーの夫と暮らしています」でした。
見た目だけでは、その人の真の姿はわかりません。
そして、再生
アトピーにとって最もよくないのはストレスだとはよく言われます。
「アトピーのせいで仕事ができなくなる」ことは、さらにストレスとなって、アトピーを悪化させるという負の循環に陥りがちです。
逆にいえば、自力で働いて安定して自立することで、アトピーの症状が回復に向かうという事も考えられます。
働くことが厳しい中で、収入を得て自立することが病に打ち勝つ方法でもあるという矛盾が、アトピー治療の難しさであるといえるのです。
それでもオットは、無事、再生を果たしました。細く弱々しかった根を必死に張り、小さな芽は硬い大地を突き破ったのです。
ありがたいことに彼は、ここ数年は小康状態を保っています。撮影の仕事もバリバリこなしています。私たちがアトピーと闘った10年間の成果が、芽吹いてきていると言えるでしょう。
再生したといっても無理や油断は禁物。いつも自分の体調を気遣って、無理しないように恐る恐る生きるのは、しんどいものです。
彼は、自分の身体に不安を感じながらも、「お仕事をいただけること」に感謝して、明るく生きています。
生き生きと写真のワークショップの講師をこなす彼の姿を見て、彼が、アトピーという名の爆弾を抱えて生きていることを、想像できる人は少ないでしょう。
見た目だけでは、その人の真の姿はわかりません。
そんな彼の能天気なnoteはこちら。
本日のTOP画像
2013年、オットが二度目に倒れる少し前から二人で始めた、写真とイラストの合作。
Photograph + Illustration = Photo-ration
フォトレーション(命名者:Gallery DAZZLE 村松真理子さん)
『赤い花』(The Bloody Flower)
『不思議の国のアリス』より『女王陛下のクロッケー』
Location: Shinjyuku Gyoen, Tokyo, 2013
(写真:宮田雄平 http://miyatayuhei.com/)
2013年5月:フォトレーション展(Gallery DAZZLE・北青山)