わかり合うことの難しさ
8月に私のnoteで一番多くのPVを獲得した記事。
note~2ヶ月経過報告~より引用
8月に一番多く読まれた記事は、「表現の自由と不自由について」。8月から始まった「あいちトリエンナーレ」に関する記事です。この記事の特徴は、PVに対してスキの数が少ないこと。
この記事が賛否両論あるためと、note会員以外の方に多く読まれたためのようです。twitterにシェアされた数は、今まででこの記事が一番多いのです。
この記事がきっかけで考えたことを、書いてみます。
私が何か書いたところで、何かが変わるとも思えませんが、思うところを残しておきたいと思うのです。
縁あって読まれた方の心に、何か残すことが出来れば幸いです。
事件を通じて実感した問題
「あいちトリエンナーレ」で起きた問題については、該当記事をお読みいただければと思いますので、割愛します。
この問題を通じて、「わかり合うことの難しさ」を痛感しました。
「わかり合う」とは、「正しいか正しくないか」ということではなく、もっとグレーな部分を認め合うということだと思います。
世の中って、白黒つけられない「グレー」な、いわゆる「遊び」の部分ってたくさんあるものです。そうした「曖昧さ」を「許容できる」世の中が、たぶん暮らしやすい世の中です。
でも、今の世間の判断基準ってそうじゃないですよね。
根底にあるのは「正しくない」側に堕ちることの恐怖
「なぜ、わかり合うことがこんなに難しいのか」を考えているときに、こちらの記事を読んで、とても腑に落ちました。
現代のネット社会では、世間で「正しくない」とされた人たちは徹底的に叩かれます。最近で言えば「あおり事件」や「池袋暴走事故」などは、悪者がはっきりしていて、「叩きやすい」事例です。
多くの人はそうやって「正しくない」人を叩きながら、自分も一歩間違えば「正しくない」方に堕ちることへの不安を常に抱えていると言います。
だからこそ、常に「自分が正しい」ことを確認せずにはいられないのだそうです。そのために自分の「正しさ」を人に叩きつけなくては気が済まない。
これを読んで、今、Twitterを中心に起きていることが、なぜ起こるのかが、理解出来たような気がしました。
Twitterで流れてくる意見の多くは、相手の意見に耳を貸すことなく、自分の意見を声高に言うだけです。議論にすらなっていない。これではわかり合うことなど不可能です。
大切なのは想像力、だけれど
それでは、どうすればわかりあえるのか。
「想像力が大事です」などと言うのは簡単です。
「想像する」ことは簡単でも、「理解する」のは難しい。
たとえば、子供のいない私には、子供を産む苦しみも、育てる大変さも、巣立つ日の寂しさも、先立たれる悲しみも、本当には「理解」できません。「想像する」ことはできても、同じ気持ちにはなれないのです。
同じように、戦争の悲惨さも、飢餓の惨めさも、元首の重圧も、男性の気持ちすら、私にはわからない。
少しだけ理解できるとしたら、差別の悔しさや、老いることの哀しみや、正社員・非正規社員・自営業の3つの立場でモノが見られるくらいでしょうか。
立ちはだかる問題
それでも、「想像しようとすること」は大切です。「理解する」のが難しいからと言って、「想像」しなければ、永遠にわかりあえないでしょう。
100%わかり合ったり理解できなくても、「自分とは違う考えの人にも、様々な事情があるのだ」と気づけるだけでも、世の中随分生きやすくなるはずです。
問題は「想像すらしようとしない」こと。
「自分は正しい」という自分で決めた大義名分のもとに、違う考えや立場の人のことを「想像」すらしないのは、危険なことです。
そんな人たちを見ていると、暗澹たる気持ちや絶望的な想いにとらわれます。それでも、「想像すること」も「想像しようとすること」もあきらめたくないのです。少しでも「理解できる」方向に近づいていきたい。
それが「わかり合う」ためのたった一つの方法だから。
「正しさ」を追求するより大事なこと
ところで「正しい」って何でしょうか?
法律でしょうか?
一番傷つく人が少ないことでしょうか?
一番弱い人が救われることでしょうか?
そのどれもが「正しい」ような気もするし「正しくない」ような気もします。
では、「正しい」ってそんなに大切なことでしょうか?
古くから「嘘も方便」という言葉があります。
「嘘をつく」のは一般的には「悪いこと」であり「正しくないこと」です。でも、時と場合によっては、「嘘をつく」ほうが「丸く収まったり」「みんなが幸せ」になる場合もある。
よく似た意味で、「知らぬが仏」という言葉もありますね。昔から言い伝えられている言葉には、真理があるものです。
世の中には「正しい」ことより大切なことがたくさんありますよね。
それが「幸せ」「思いやり」「やさしさ」などです。
フランス人は美しくないことはしない
もう20年くらい前に何かで読んだのですが、フランス人は、物事を「美しいか、美しくないか」で判断すると言います。
(もちろん、フランス人が皆そうだというわけではないかもしれませんが)
その記事では、こんなことが書かれていました。
たとえば、日本的に「電車でお年寄りに席を譲らないのは正しくない」というと、何だか窮屈になってしまうけれど、「お年寄りが立ってる横で若者が座っているのは美しくない」と言えば、素敵な気持ちで行動できるのではないか。
人生のすべてに「美」を求めるようなフランス人は「そんな美しくないことはしたくない」と思えるのでしょう。
なんでもフランス人の真似をする必要はありませんが、日本人もその精神は見習いたいものではないでしょうか。
「思いやり」の先にある「美しさ」
窮屈に思える「マナー」も、もともとは皆が気もちよく過ごせるための「思いやり」から生まれたと言います。取っつきにくくて分かりにくいといわれる「デザイン」も、使い勝手などの「使う人へのやさしさ」がベースになっています。
このことが示すのは「思いやり」や「やさしさ」を突き詰めて行くと「美しさ」に繋がっていくということ。
でもそれを守ることこそが「正しさ」だとして押し付ければ、本来の目的を見失って、本末転倒なものになってしまうのです。
その「正しさ」には「思いやり」があるか?
その「正しさ」には「美しさ」があるか?
その「正しさ」の先には「幸せ」があるか?
「自分は正しいのだから、正しくない人を攻撃してもいいんだ」と考えた時に、ふと立ち止まって、考えてみたいものです。
幸せになれる魔法の言葉
ちょっと説教臭い内容になってしまいました。
最後に、「自分が正しいかどうか不安になったとき」に、唱えると楽になる「魔法の言葉」を書きます。
声に出して言ってみましょう。
「正しくなくたっていいじゃないか、しあわせだもの ぴよを」
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