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蛇神について(前編)

蛇神、龍蛇神、蛇神信仰、、、古代より蛇が神様として崇められるのはどうしてだろうか。以前から調べてみようと思いながらもここまで放置したままでした。最近、オンラインサロンの仲間から蛇にまつわる話を聞く機会があったので、この際、自分なりに調べてみようと思って谷川健一氏の「蛇 不死と再生の民俗」を読んでみました。

正直なところ、民俗学というのはよくわからない学問で、関連のありそうな事実や事象が並べられて、だからこういうことだ、と直線的(誤解を恐れず言うと短絡的)に結論に導かれる。まるで靴の上から足を掻くような、何となく腹落ちしない気持ち悪さが残る。だからこの本を読んでも明快な答えが書かれているわけではありませんでした。

とはいえ、この機会に改めて調べてみたことも含めて、初めて知る事実や改めて確認できた事実など、材料をたくさん見つけることができました。これまでモヤっとながらも持っていた自分の仮説に肉付けして、少しは自分なりに明快にすることができたように思います。この「前編」では谷川氏の著書の印象に残った個所を取り上げながら、自分の考えを書いてみます。

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●みづち
長野県富士見町、八ヶ岳の麓にある井戸尻考古館に「みづち文深鉢」という土器が展示されています。昨年10月に井戸尻考古館を訪れたときにこの土器を見ていたので興味深く読みました。そもそも「みづち(蛟)」とは井戸尻考古館の説明では「山椒魚とか魚類、または龍の属」「そうした要素が混合した想像的な水棲動物」とありました。ネットで調べると、中国では龍の一種、日本では水神や龍神、龍蛇神を意味すると出ていました。しかし著者はこの文様を「鰐を模したもの」とした上で、「中国の龍は鰐をかたどったという説が有力である」ことと、「中国の長江に鰐がいたこと」をもとに、この土器の文様を「龍」と断定して、縄文時代の中期に龍の文様が伝わっていたことを指摘しています。あわせて長江の河姆渡で紀元前7000年頃から稲作が行われていた事実から、龍の文様とともに縄文時代に稲作が伝わっていた可能性も指摘しています。前者の指摘は少し強引に思いますが、後者についてはこれまでにいろいろと調べた経験から、江南から様々な文化、文物が伝わったことは間違いないだろうと思います。

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●大祓詞
6月と12月に行われる大祓詞(おおはらえのことば)にある「海の潮流のもみ合うところ、つまり『八塩道の塩の八百会』に『速開つひめ(はやあきつひめ)』という神がおり、大きな口を開いて、海に流れ出た罪をがぶといきおいよく呑む」という言葉を取り上げています。そして、「八百会」とは根の国、底の国の水門であるという説を引用して、「烈しい渦巻の底は根の国に通じており、そこに罪ケガレを呑み込む女神がいる」とし、さらにこの女神を蛇神と推断しています。渦の底に蛇神がいるとしていますが、これは蛇がとぐろを巻く姿が海の渦に似ていることに由来する話ではないでしょうか。蛇がケガレを取り除くと考えられていたことの表れと言えます。

●ウズ
宮古島や伊良部島などでは「ウズ」は鮫や大ウナギ、ウツボを指すと言います。また、八重山諸島の鳩間島ではウツボ、ウナギ、ハモ、アナゴなどは「ウジ」と呼ばれています。いずれも海に生息する細長い生物で、「ウズ」や「ウジ」はいわゆる海蛇の類を指す言葉だと言えます。

龍巻という自然現象は、古代人はタツという怪物が巻くことだと考えたと言いますが、同様に潮流が渦を巻く渦巻という現象は、ウズ(海蛇類)の巻き起こす現象と思われた、と著者は推測しています。なるほど、これはわかりやすい。大海の渦の底に蛇神がいるという前述の話と符合します。そしてこのような考えは南方から、あるいはもしかすると前述の「みづち」同様に江南発で東シナ海を渡った各地に伝わったと考えることができそうです。

さて、日本書紀の神武東征の話に「珍彦(ウズヒコ)」なる人物が登場します。神武一行が東征に出発してすぐ、豊予海峡とされる速吸之門で出会った海人です。古事記では「宇豆比古」と言い、一行と出会った場所は吉備を出たあとなので、明石海峡とされています。いずれにしても潮の流れのはやい海峡で「ウズ」と名のつく海人が登場していることが興味深い。蛇神を祭祀に取り込んだことの表れかもしれません。

神光照海
日本書紀第八段の一書に、少彦名神がいなくなったあとの国造りの終盤で大己貴神が出雲に辿り着いたとき、神々しい光が浮かんで海を照らしながら俄かにやって来た、というシーンがあります。古事記にも同様の記述があります。

出雲の佐太神社の神職によると、海を照らしてやってくるものは海蛇だそうで、夜に海蛇が海の上をわたってくるときは、金色の火の玉に見えるらしい。 毎年、11月中旬ころになると北西の風が烈しく吹いて海がシケり、佐太の近傍の浦々や海上に海蛇が流れてくるそうです。この海蛇は龍宮の使いとして「龍蛇さま」と呼ばれ、漁民たちはそれを捕らえて11月下旬の神在祭に際して神社に奉納します。同様の神事は出雲大社、日御碕神社、美保神社でも行われているそうです。この海蛇は強い毒を持つ南方産の「セグロウミヘビ」とされ、黒潮の流れに乗って毎年決まったころに季節をたがえずやってくるセグロウミヘビを、素朴な人たちは龍神の使者と考えて深く信仰したとのことです。そして出雲の西方、石見地方の乙見神社、津門神社などでも龍蛇神の奉納が見られることから、著者は龍蛇信仰が特定の神社の信仰ではないと推測しています。つまり、この地方一帯に龍蛇信仰が広まっていたと考えられるようです。

記紀によると、海を照らしながらやってきた海蛇は、このあと大和の三輪山に祀られます。また、日本書紀の崇神天皇紀には、倭迹々日百襲姫命の夫である大物主神が小さな蛇になって三輪山に登っていく様子が記されます。古事記の崇神記にも活玉依毘売(いくたまよりびめ)の夫として同様の話が記されます。

つまり、出雲の国造りの場面で登場した海蛇が大和の三輪山に祀られた大物主神で、崇神天皇のときに再び蛇となって現れるということになり、蛇にまつわる話としてつながってくるのです。出雲の龍蛇信仰が大和にもたらされたということでしょうか。しかしながら、出雲が海蛇で大和が陸の蛇ということに合点がいきません。もしかすると古代人には海蛇と陸蛇を区分する考えがなかったのかもわかりません。

中編へつづく)


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