本を貸すことの切なさと、その先に見えるもの
家に来た友人や知人が、ふと目に留まった本を手に取り、「これ、借りてもいい?」と尋ねる場面は、誰しも経験があるのではないでしょうか。
そんな時わたしはよく、「いいよ」と気軽に返事をします。でも、次に会う約束がないまま、そのまま本は相手の手元に渡り、いつの間にかその存在が忘れ去られてしまうことが少なくありません。
普段はそのことを気にすることはありません。
わたしにとって、その本は一度手放したものであり、相手の元で役に立つのであれば、それで良いと思っています。しかし、ある日突然、「あの本をもう一度読みたいな」と思い出す瞬間が訪れることがあります。その時、本棚を探しても見つからず、誰に貸したのかすら思い出せない。その瞬間に訪れるのは、何とも言えない切なさと悲しさです。
わたしの場合、仕事の資料として使うことも多いのでそのがっかり感は半端ないのです。
昨日がまさにそんな日でした。
わたしが大切にしていた一冊の本、数千円を出して購入したものですが、もう手元には戻ってこないかもしれない。そう思うと、切ない気持ちがさらに募ります。誰に貸したのかも思い出せない自分自身に苛立ちを感じつつも、そんな自分をどこかで許しているのも事実です。
でも、その誰に貸したかすら覚えてない自分にも少しがっかりすることもあります。
わたしは本を傘のような感覚で捉えています。
傘を誰かに貸すとき、それが戻ってこないことはよくあることです。そのため、手放したこと自体には問題を感じません。ただ、ふとその本が読みたくなったとき、その手元にないことが、心に深い切なさをもたらすのです。
不思議なことに、きちんと本を返してくださる方には、特別な愛情を感じることがあります。きっとその方も本を大切に思ってくれていたのだろうと感じ、その思いやりに感謝の気持ちが湧いてくるからです。
しかし、この切なさが生まれる背景には、今の時代において本というものがかつてほど貴重な存在ではなくなってしまったことがあるのかもしれません。電子書籍や情報のデジタル化が進む中で、物理的な本の価値が薄れてきているのです。そして、わたしがそこまで本を大切にしているとは、他の人々は思っていないのかもしれません。
わたし自身は、人から借りた本のことは忘れません。
そして、何年経ったとしても、必ずその本を返します。しかし、残念ながら、他の人々はそうではないことも多いようです。
それでも、わたしは本を貸し続けるでしょう。なぜなら、その瞬間に誰かが本を手に取り、何かを得ることができるなら、それはそれで本の持つ役割を全うしたことになるからです。