普通の生活はどこにある?ー人それぞれの大変さ
先日から私は人の人生の不思議に出会い、もう価値観がひっくり返るほどの衝撃を受けているのです。
別に人の不幸を喜ぶタイプでもなくて、むしろ人の不幸を聞きたくないタイプなのですが、不幸というとちょっとおかしな表現だと思うのですが、ある人の大変さを思い知ってしまったというのが正しい表現のような気がします。
若いころに大好きな教員の仕事を捨てて、大学の先輩と結婚するに当たり、私は生まれ育った大阪を後にしました。
今になるとどうしてそんな大それた決断ができたのかわからないのです。
みんな都会へと飛び出すのに、都会生まれの都会育ちの私がそんな決断をした理由もわかりません。
強いて言うなら、改めて結婚相手を見つける気もなかったし、男女雇用機会均等法が施行されてはいましたが、いざ職場に入ってみると、結婚して寿退職するのが当たり前、という風潮のある学校での考え方に添ってしまったというのが正しいところのようです。
結婚してすぐに妊娠し、3年半して息子も生まれました。
結婚生活は外から見れば申し分なく、夫はしっかり仕事をしてくれていました。正直婦人科系に何となく自信がなく思っていたのですが、アッサリ妊娠し、丸々太った子豚のような娘に続いて、これまた丸々太った息子が生まれました。
端から見たらそれはそれはしあわせそうであったことでしょう。
だから悩みは尽きなかったとも言えます。
誰も聞いてくれない。
家の中でのお姑さんのキツさも(これは相当にひどかったらしい。ちょっと話すようになった地元の人も呆れるばかりで、それに当然お姑さんの味方と思われる人からも、「あんたが大変なんはようわかっとるがいちゃ!」と言われる始末。)、誰もわかってくれません。というより誰に話せもしませんでした。夫は地方の長男。母に歯向かえる人ではないし、夫にとってはとんでもなく優しいお母さんだったことも容易に理解できました。
今ならお姑さんの立場も理解し、お母さんの育ち方、年代、性格などを考えたらよくやって来られた方だろうし、お母さんの思考も感情もそうなることも理解できてきました。
でも、当の私は、当時、それを意地悪なのか、理不尽なのか、それとも都会から来た私を嫁として育てておられるのかもわかりませんでした。
夫は言いました。
初め、どちらかの個性を徹底的に潰せばうまく行くと思っていた。
この言葉を聞いて呆れかえりました。(笑)
ということで、私は私なりにそれなりに苦労してきたと思っていたのです。
ところが、最近、そんな仕事を持ち、そんなところで生まれ育って、何不自由なく、と思っていた人が、とんでもなく大きなものを抱えておられるということを知りました。
いえ、そんなに知っていた人でもないのです。
ただ、ほんのちょっとお世話になっている人です。
でも、とんでもなく賢くて頭がよくて、とは思っていましたが、そんなに知っている人でもありません。
それに私が知りたかったわけでもなくて、ちょっとどういう人か知りたい、と言われて私はまあ、軽いノリでわかる範囲で調べることにしました。
調べると言っても調べてなどいません。知り得たことをつなげただけでした。
人というのはどうしてこうも同じようにそれなりの苦労を抱えているのだろうか?と思ってしまいました。
職業柄、請われて、新聞でも話題になるようなお家にお伺いするという機会もたくさんありました。
こころを開いてくださるとお子様もお家の方も悩みをご相談くださったりします。
大抵、それは私などには到底抱えることのできない悩みでした。もう二進も三進も行かないような。その方がその場にいらっしゃらなかったら、どうすることもできないし、その方がそこにいらっしゃることでなんとか保っている形。でも、その場にいらっしゃることがとんでもなく理不尽、という形もありました。
目に見える形は周りにもわかりやすいと思います。
旦那様がエリートであったり、目に見えて素晴らしい仕事をなさっておられたりする場合、本当に周りからは見えにくい。
そういうお家も含めていろいろお伺いしているうちに、私はそのうち、周りから見てのしあわせなんてそれほど不確定なものはないと思うに至りました。だから、ちょっとやそっとで羨ましがる理由なんてない。
そう思って生きてきました。
若いころ、別居したために家賃を払って夫の職場の近くのマンションに住んでいた頃、キッチンを片付けたくて、でも数年で転勤になるのでそれは今は必要であってもそこに置いて行かなければならないので、鍋を置く棚を何度も何度も買いたくて荒物屋さんにバギーを引いて見に行っていました。でも転勤まで結局買うことができませんでした。わずか数千円の物を何度も何度も考えたけど買うことができませんした。でも、その暮らしは決してお金がたくさんあったわけでもなかったけれど、娘と一緒にあれこれ工夫して出掛けたりしてとんでもなく楽しかったのです。
家をきれいに保ちたくて、収納道具があれこれほしかったのです。大きな押し入れは収納スペースとしてはいいけれど、収納用具がなければそれも生かせませんでした。そういうことを男性に行ってもなかなかわからなかったようです。
そんな小さなことがとても楽しかったのです。
気持ちよく買ってもらえたらもっと良かったかもしれないけれど。
新婚の家に荷物を入れたとき、すでにお義母さんが、百円均一で買って来られた菜箸や食器かごがありました。夢見ていた新婚のキッチンも、そもそも自分の物ではなかったのですが、3か月後にはあっさり同居になりました。
周りの奥様方はあっさりと義両親に言える人もいました。
次男さんだったからかもしれません。
長男に嫁いだのだから、覚悟していたでしょ?と言われるだろうことも、まさか、キッチンにお義母さんの選んだ道具が置かれているとは思っていませんでした。
女性というのはそういうことが大事な面があります。
生活の道具は自分で選びたい。
今もそうです。
私は道具にはこだわります。
一時使えるだけの物よりも長く共に育って行けるような道具が好きです。
そして、私は物持ちがいいと言われます。
母が買ってくれたピアノも、私はそれから弾くことを望むにはあまりに大きな買い物でした。グランドピアノではないけれど、グランドピアノの仕組みが内蔵されていて今では製造されていない。
そんなピアノも持って来たことを無用の長物扱いされました。
これは当たり前かな?
学生時代の本も全部持ってきました。
本を捨てろと言われたときに、それを実家の母に訴えたら、私の母の切り替えしも絶妙で、笑って、
あんたから本を取ったら、いったい何残るて言うねんなあ・・・?
母、怒れよ!(笑)
料理もするし、ピアノも弾くやん。
ついでにセーターも編むし、洋服も作ります。
って、いや違う。
要するに勉強も仕事もしたかったけど、相手はそう思っていなかっただけです。
まるで私の心中を察したかのように、勤めていた学校の先輩方に、
おまえ、主婦は本が読めると思てるやろ?
と言われました。
私も勉強に恋々とし、彼のために教壇は捨てた!と金沢に立つ日の夜大阪駅から三日月を見て、泣いた(その日が最後の授業を終えた日でした。)くせに、社宅の近くを新卒の先生がひよこのようにかわいい一年生を連れて歩いておられるのを指を銜えて見ていました。
おまけに金沢の市民大学の講座に抽選で当たり、第一回目の受講日のお昼に娘を身籠っていることを知り、授業を受けながら、ムカムカして座っていられなくて、その次の日に、申し訳なく思いながら、受講できない旨を伝えました。担当の方は、来年身二つになってからでもまた・・・、と言ってくださいました。それからほどなく転勤になりました。(笑)
何年も経って、いつしか私はまた教壇に立っていました。
夫の許可が出たのです。札幌でも出席した同窓会絡みでちょっと出ていましたが、帰って来て、ある朝、出勤の準備をしていた夫が、ネクタイを締めながら、
○○の学校に電話して、空きがあるか聞いてみ?
お前の自己実現のために・・・。
と言ってくれました。今から思えばそれは本当にそうだったのか?という面もありましたが、とりあえず、
一応履歴書送っとく?
と言われた学校から、すぐに電話が来て、すぐ採用となりました。
非常勤講師とはいえ、久しぶりの大勢の生徒を相手の授業はドキドキしましたが、復帰できたのは本当に嬉しかったのでした。
職場に出ると、社会が一気に広がりました。
その時は下の息子の幼稚園1年目。PTAの役員としてお義母さんからも夫からも自立した人間関係ができ始めました。
そうすると、それまでは、
ここでは○○ながいちゃ!
と言われたらもうどうすることもできなかったのに、それからみんなで話しているうちに、どうも○○だから・・・、というのは本当のことではないとわかってきました。
私が困っていることのもっともっと手前でみんなは怒っていました。
○○ってそういうところと違うん?
と私の頭の中には???が飛びました。
夫からは、誰かから、よそから来たから大変でしょ?と言われても、大変という言葉を待ってるから、それを聞いて納得されるという話を聞いていました。
その集まりでは、私のことを、
あなたはここに馴染もうとする気持ちがあるから・・・。
と言ってくれました。
そう、大阪など捨てていました。
白紙の気持ちで臨んでいました。
けども、そういうからくりがあったことは知りませんでした。(笑)
最近でも、もう相当昔でも、
今はこうして明るい顔して生活しとるけど、最初は大変やったと思うよ。
と言ってくださいます。
とはいえ、むしろ当時から温かく接してくださる方が世間には多かったのです。
正直新しいことに戸惑いもしましたが、あれこれ疑問に思っている暇もないことが、目新しいこと好きの私にとっては楽しかったのだと思います。
あんた、たしか他県から来たはずなのに、なんで私らも知らんことを知ってるん?
と何度言われてきたことでしょう。ふふふ、私はよそから来たからこそ目ざとく楽しいものを見つけるのがうまいのよ!
誰よりもここの楽しさを知っているわけよ!(笑)
というわけで、それなりに苦労の一つや二つしてきたはずの私は、ああ、世の中には、ずっとここに住んできた人の中にも、たくさん大変なことを抱えておられる方がいらっしゃるのだなあ・・・、と、何度目かに思い知っている気がしています。
ということは、みんな大変なのです。きっと。
ただ、どこかに普通の生活があると思うのは、幻想だと思うのです。
しあわせというのは、今までしてきたことの積み重ねたと思うのです。
というか、もっと言うなら、今、目の前にある課題をただただしっかり取り組み続ける。自分に起こったことは必ず乗り越えられると信じてなんとかやってみる。
もちろん、法に触れるような、耐えてはいけなくて、とにかく逃げなければならない状況もあると思います。
でも、そうでなければとにかくやってみる。やってみて自分の手には負えないと思ったらやめてもいい。やめた方がいいと気付く場合もあるでしょう。
でも、とりあえず目の前のことをやってみる。できれば楽しくなるように工夫して。
大好きな中唐の詩人である白楽天。
日本人には一番親しみがあり、紫式部や清少納言なども、白楽天の作品を自身の作品の中でもたくさん引用しています。
官僚であることと詩人であることを見事に両立し、夫婦仲も良かったという話です。
そんな白楽天も、確かお母さんが井戸に身を投げ自殺していました。
あれこれ見舞われる不幸に、どこか自己を客観的に見るところがあるらしい彼は言います。
私の通り名である楽天というように(生まれたときの名前は白居易です。)、私は楽天家なのかもしれない。
それはあまりに重たい試練が続き、自ずと自分を
よくやってるわ・・・。つぶれもせずに。
とちょっと身を斜めにしてまともに受けずにまるで交わそうとしているかのように思えるのです。
そうまともに考えたらひどい試練かもしれない。
でも、ちょっと自分を笑ってみる。
ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』の中でも、精神分析科医であるフランクルは、収容所内で、同僚の医師に、
俺たちのこの姿を嫁が見ていると思ってみろよ・・・。
おかしくないか?
と言って、わざわざ自分の今の姿を戯画化するかのように笑うのです。
俺たちが、収容所から出て、どこかの家の夕食に招かれて、そこの家の奥さんがスープを皿に入れようとしてくれた時に、
奥さん、どうぞスープはそこの方からお願いします・・・。
と言ったらどうだい?
と笑うのです。
収容所での粗末の食事の中で、スープにはほとんど材料が入っておらず、底の方に沈んだジャガイモなどが、仲のいい当番の人だとそこの方から掬って入れてくれるのでした。
その生活を笑い話に変えようとする、その偉大なフランクルの精神を、私は先人の、凄惨な状況の中でも人としての尊厳を失うまいとした人が存在した
誇りだと思いました。
誰しも大変な生を生きています。
ホロコーストと同じにしてはなりませんが、見えてこないだけで、本当に大変な人生もあります。乗り越えることを人としての強さにのみ還元できるものではないような理不尽さもあります。
それでも生きなければならない。
そして、それはある意味等しく大変なものであるのかもしれないな、と思いもするのです。
そして、我がことだけに気持ちを集中して、結構な苦労をしてきたつもりでいた自分のことを客観してみると、まだまだだな、とも思えます。
まだまだ楽しく生きる工夫ができそうです。
そして、起こったことは、どうも自分自身の課題を乗り越えたときにあっさりと解決するように思います。
その時が来るのを待ってみようかな。そんな柔らかい気持ちで日々を生きてみたいのです。