見出し画像

きっかけ

障がい者と呼ばれる人を意識したのは小学生の頃。1,2学年下に私と同じ「れいこ」という名前の聴覚障害の子がいた事でした。

彼女は、私も同じ「れいこ」って名前だと知ると、校舎のの遠くで見かけると大きく手を振ってくれたり、駆け寄ってきて話しかけてきてくれました。

ただ、私は彼女の話していることが分かりませんでした。筆談で話すことが主で、彼女が私の口の動きを見て理解してくれたり。それがとてもとても申し訳なくて仕方がなかった。そこから手話に興味を持ち練習しようとした頃に、私は小学校を卒業する時期に。

彼女とのコミュニケーションがあまり取れないことが、これほど辛い事かと感じました。彼女が聴こえない事が「障害」ではなく、私が聴けない事が「障害」のような気持ちにもなりました。

とある人が『障害は人と人の間にある』とおっしゃっていたのを聞いた時、「まさに!!」と。

街などで見かける、いわゆる障がい者と呼ばれる方はどんな想いがあるのだろう。と興味を持っていたところに、乙武洋匡さんの「五体不満足」という書籍が話題になりました。私が22歳になった1998年。私と同じ年であることで、勝手に親近感を持ったのですがw 読む前に表紙を見ただけでなんだか腑に落ちた気持ちになったのを覚えています。

私の主な仕事は水泳のコーチなので、多くの方に泳ぎ方を教えるのですが、いわゆる健常者と呼ばれている方でもなかなかできない動きがあって、こちらの知識や伝え方や聴き方などの指導方法の引出しが多ければ多いほど、そして、相手にマッチした指導方法の引出しが提供できれば、上手くいくことがあります。

結局、相手に何が必要なのかをできるだけ的確に早く提供できるように、しっかりコミュニケーションをとることが大切で、これは相手が「健常者」でも「障がい者」でも変わらない。

小学生の時の「れいこちゃん」との会話で経験したもどかしさが、乙武さんの発信が、今の私に繋がる『きっかけ』の一つになっているのだなぁと最近よく思います。

片足切断の夫に興味を持ったのも「私に何かできないかなぁ」という気持ちと「障害は人と人との間にあるものだ」ということを伝えたかったことが『きっかけ』だったように思います。もちろん、彼は人として尊敬できる部分が多いので、惹かれたのもありますが。

これからも、目の前の方の動きや想いに対して、観て聴いて感じることを繰り返しながら、過ごしていきたい。

コロナ禍なので、なかなか目の前に人はいませんが(笑)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?