見出し画像

やさしさって、ヒーローだ。

しーちゃん@c_gotta2です。正直、毎日つらいつらい言いながら、やさしさに飢えてる女子大生です。


これはだいぶ前のキャンペーンになりますが、こちらのsoarさんの#やさしさってなんだろう 執筆を受けて、私なりに「やさしさについて」考えた思いを書かせていただきます。6200字程度です。ふぁい。



多分スクロールし飽きるご時世だから、先にあらすじ、というか執筆前に私がメモったものを投げてしまおう。

◎伝えたい人
やさしさについて考えてる人
自分なりの優しさの意見を持つために、他人が持つやさしさの思考を知りたい人
とりあえず私の文を読みたい人(いてくれたら嬉しい…嬉しい…)


◎伝えたいこと、というか自分の思考
やさしさは傷ついた人ほど、その重要さが分かってるかも
やさしさは愛から生まれ、能動的で自己完結できないコミュニケーション
与えるもの、相手にも自分にも。
やっぱり愛と勇気だけが友達さ?


もうこれで一を聞いて十を知った聖徳太子さん、Uターンせずそれでも読んでくれると嬉しいです。


さあ、今から長文始まるよ。



目次

1、第一印象としてのやさしさ
第1の考え…やさしさ=安心感?
2、やさしさを知るために必要なこと
第2の考え…やさしさ=傷つくことを知っている?
3、やさしさが生まれる場所
第3の考え…やさしさ=not受動態but能動態、コミュニケーション?
4、やさしくて勇敢な友の話
第4の考え…やさしさ=自分をも大事に出来る、愛と勇気
まとめ


1、第一印象としてのやさしさ

やさしさ、ってなんだろう。

どこから考えていいのか分からなかったので、まずはやさしさという言葉の響きから、連想されるものを拾っていった。

ちなみに共感覚を持つ自分の主張として、やさしさ、という言葉の響きはオレンジと黄緑、紫のジグザグである。yという音にオレンジ色を感じ、sは緑、でも「し」という言葉の形が紫色なのだ。脱線おわり。

やさしさ…あたたかい、おだやか、ホッとする、救い、やわらか、安心…

そうするとなんとなく共通する感覚として、

やさしさって、なんかこう、ふんわりやわやわして…安心するものではない?

と思い始める。超フィーリング。


第1の考え…やさしさ=安心感?




2、やさしさを知るために必要なこと


その次に浮かんだ考えが、
「優しさとは、ある意味傷つくことだ」
というものである。

「やさしさ=安心する」という考えを浮かべた後に
どうして「やさしさ=傷つくこと」という思考回路に、私がなってしまったのか。だいぶ正反対ではないか。

しかし安心する感覚が自らに得られるということは、
逆に考えると、

その瞬間までに安心出来ていなかった事実がある、と言える気がしたのだ。

するとやさしさは、
『やさしくない時間』
安心することができない瞬間や
傷つくこと、痛みを知っていたほうが、よく分かるはず。

自分が話している言葉が日本語だと言うことは、海外の人が異なる言語を話していることを知ることで分かる。多国語があることを知っているせいで、自分の話す言葉が「日本語」という特別な言語だと線引きが出来る。海外に行って日本語を恋しく思った人ほど、日本に帰ってきてホッとする。

傷ついた辛さを知っていることで、「この感情」が普段の感情の延長線上ではなく「やさしさ」という定義で囲える特別な感情として納得し、再現できる…
と言えるのではないだろうか。

「傷ついたことのある人は、やさしくしか生きられない」
だなんて言葉をどこかで目にした覚えもある。

やさしさとは、いちどは傷つくことに近いのかもしれない。
傷ついた具合が深く、そしてその後、やさしさを得たことのある人ほど、やさしさの重要性を知っていると私は思う。(起業家の家入さんとか、めちゃくちゃそんな感じがする。想像だけど)


第2の考え…やさしさ=傷つくことを知っている?



3、やさしさが生まれる場所


じゃあ傷つけばみんな優しくなれるのか?と言ったら、それは違う。
傷つくことが素晴らしい、とかそんなこと私は言わない。
傷からやさしさは、残念ながら生まれない。
転んだ後の傷跡は綺麗だろうか?
否。苦手な人は目を背けたくなるような酷い有様だ。
そう、傷跡は本来、醜いものである。
血みどろだ。
もし傷ついた人がみな優しくなれる仕組みなら、ひねくれてグレてしまったり、辛い連鎖を生んでしまう人なんていない。戦争も起こらない。

傷から痛み恨みつらみは広がれど、
やさしさという感情は生まれない。
傷ついた後でそのまま傷つきっぱなしでいれば、どんどん傷は化膿していく。

では一体、やさしさはなにから生まれるのだ。

持論を言おう、結論を言おう。

やさしさは、愛から生まれるのだ。

愛について定義はいろいろあるから、これ!と断定出来ないけれど
私なりに愛を言うとすれば、

その心に平安と余裕をもたらし
相手へ見返りなく意識を広げられる、強い力
だ。

その愛はどこから来るのかといえば、残念ながら愛は自発的に持つものではなく、誰かに伝えてもらい、学ぶものだと思う。
「愛される」ことにより人は愛を知り、他人へのやさしさを育み出す。
(だからね、悲しいけれど愛されなかった人は、自分で愛を育めないんだ。だから愛を知る人は、他人に愛を教えてあげられる…いや、あげる必要がある。もしもあなたが愛を知っている人なら、惜しみなく誰かに与えてあげて。人がしっかりと生きていくために、愛は不可欠なのだから。)

愛の力はとても強い。そこから生まれる、やさしさも強い。

愛ややさしさ、にいちばん近い単語は「思いやり」だと私は思う。

「思いやり」を広辞苑で調べてみると、
「相手の立場や気持ちを理解しようとする心」「想像」などとある。

思いやりをもつためには、自分のことでいっぱいいっぱいにならず、相手を慮ることができるだけの経験と想像力が大事である。

*

やさしさ、を考えていたら、「愛」や「思いやり」という言葉が出てきた。
そのどちらにも、相手という、自分以外にむかうベクトルがぼんやり見える。

ところで、一番最初に“やさしさの響きから連想”して
「やさしさ=安心感」という式を立てた。
しかしそれは間違っていることに、いま気づく。

やさしさと安心感は同じではない。

例えば、あなたが寒い日に暖かな部屋に駆け込み、ココアを淹れてホッと一息つく。日中、布団を干しておいて、疲れて帰ってきた後、そこにくるまり、お日様いっぱいの香りを吸い込む。どちらも非常に安心感がある。

部屋は、ココアは、布団は、私をやさしくしに来てくれたと言えるだろうか?

ちがう。
それらは自分が用意しなければ存在しないものだ。

つまり安心感というものは、自己完結が出来る。
対象が「私」という一人称で、受け手(私)が感じる静的なものだ。

さて、やさしさに近しいものとしてあげた「思いやり」は自己完結出来るだろうか?

誰かがいないと、思いやりは成立しない。
なぜなら、思いやりは「思い」「やる」からだ。
どこかに「やる」もの、与えるものである。
思いやられなければ、思いやりは感じられない。

やさしさ、も同じだ。(愛も然り)

やさしくされなければ、やさしさは感じられない。
受け手ではなく、行為主体が存在する能動的なもの。
ひとりでは成立しない、2人以上が必要なやり取り。
安心感よりもレベルの高い、コミュニケーション
人と人の間を渡っていくもの、繋いでいくもの、

それがやさしさ。

たまに、「相手を傷つけないためのやさしさ」というものに出会う。
この言葉を言ってしまったら、相手が傷つくかもしれない。
だから言葉を飲み込む。
傷つけないため、こじらせないために、
言わないやさしさ。

でもそれが上手くいく時もあれば、
余計にややこしくなる時もある。

ある日、私は些細な喧嘩を友人とした。
言いたいことがあったけれど、言ったら相手が傷ついたりもっとこじれると思ったので言葉を飲み込んだ。
しかし何か隠していると指摘され、白状したら、
「勝手に自分で判断しないで。言わないことはちっとも良いことではない」
と余計に不愉快そうに言われた。

傷つけないよう良かれとした自分なりのやさしさを、否定されたと思い悲しくなった。
しかし落ち着いてみれば、
言わなかったのは、自分自身が傷つきたくない気持ちが優先されていた。
自分へのやさしさ、いや保身のために、言わなかったのだと気づいたのである。

やさしさはコミュニケーション
他人ありきのものから生まれる。
やさしさは、giveだ。
だから、勝手に自己完結したことは、やさしさでは無かったのだ。


第3の考え…やさしさ=not受動態but能動態、愛、コミュニケーション?



4、やさしくて勇敢な友の話


「やさしさ=コミュニケーション」を捕捉し、第4の考えを導いていく例として、大学で出会った私の友の話をしよう。

「自分はとても頑固な性格だよ」と彼自身は言うのだが、とてもやさしさを持っている人間だ、と私は思っている。
愚痴を聞いてくれたり甘えさせてくれるからやさしい、と感じるのではない。

彼は私に対して、きちんとコミュニケーションを取ってくれるのだ。

冷静に、感情と言葉を、その時その時きちんと繋ごうとしてくれる。

私の意見を聞いてくれ、彼自身の意見も伝えてくれ、
もしも私の言い分を理解するべきだと彼自身が思った時は、自らの考えを変えることも辞さない。

とてつもなく勇気がある。
頑固ではなく、芯がある。

私はそんな彼を、やさしいと感じる。



ここで、ヒューストン大学教授のブレネー・ブラウン氏のスピーチを引用する。

英語の勇気(courage)は、ラテン語のcor -ハート/心臓― から来ています。そして勇気(courage)の元々の意味は「健康なこころ」で、嘘偽りなく自分の物語を語ること、です。つまり、自己信頼感に溢れる人々とは、不完全である自分を受け入れる勇気がある人々を指します。彼らはまず自分を大切にし、それから他人も大切にします。
私達は自分にやさしくなることが出来なければ、他人にやさしくなることは出来ません。


さて、友の話に戻る。

私も難聴者であるのだが、彼は人工内耳を使う重度難聴者である。
だからコミュニケーションに関して非常に苦労してきたのは想像するまでもない。

難聴でなくとも生きづらさをもつ者なら、誰もが一度はこの気持ちを思ったことがあるだろう。

「どうして私ばっかり」。

どうして他の人は普通に聴こえるのに私は聴こえないの?
なりたくて難聴になったわけじゃない。病気になったわけじゃない。
どうして私ばっかり、不幸なの。

子供の頃、私はそんな風に何度も外部に怒りをぶつけ悲しくなった。
不思議なことに外部に辛さを向けたらストレスは発散するかと思えば、憎しみは途絶えることなく増していき、醜い自分をさらに隠すために怒りで覆えば、自身がどんどん嫌いになった。

やさしい彼も、同じように辛く思っていた時期があったらしい。

でも彼の素晴らしいところは
その辛さから逃げずに向き合い、ある日、
「嘆いても自分はこのままの姿だ、しょうがない」と納得できたという。

逃げ出したくなる辛さを、不完全である自分を、
彼は受け入れたのだ。

本当にすごいと思う。
不完全さを受け入れる、というのは「恥」を受け入れる、と言ってもいい。
人間なら誰だって他人に好かれたい、だから恥を隠そうとしてしまうし、「治そうと努力」すらしてしまう。
わざわざ他人に恥をさらけ出そうなんてしないし、自分自身にさらけ出す(向き合う)のも辛いこと。

だけどそれを、彼はやった。

人は悲しいことに、自分のことを理解し受容しているレベルでしか、他者を理解し、受容することが出来ない。
分かりやすく言いかえれば、自分の欠点(恥)を受け入れられずにいると、自分と似た欠点を他人に見てしまった時、「君も治すべきだ」と他人を責めてしまうことがある、ということ。

自分の恥を受け入れたから、彼は他人の恥も受け入れ大切にし、深いコミュニケーションを試みるようになった。手を差し伸べられるように、やさしくあれるようになったのではないかと思う。

*

美大生の彼は卒業制作で、
コミュニケーションを形にすることに取り組んでいた。

彼のコミュニケーション、他人への強い思い、恥を受け入れた勇気は、
きっと苦労や傷ついた経験から生まれている。

傷ついたり苦労することは、心を広くすることである。

個人的な感覚だが、どんなことでも、なにか苦労をした人間はしていない人間より器が広くなる気がする。

ただ、傷をそのまま放置すれば、ばい菌が入って余計に悪化したり、たとえ治ったとしても、醜くグジュグジュとした傷跡が残る。
傷ついて心が広くなっても、その後でそのまま痛みや辛さに心を委ねてしまえば、ひねくれたりこじらせたり、苦労し傷つく前よりも、性格が歪んでしまう恐れがある。

しかし放置せずに、消毒や良い絆創膏を貼ったり(最近の絆創膏は実に優秀!)、自分で大事にケアをすれば、その傷は、傷ついた事実は変わらないけれど美しくなる。

自分自身を「しょうがない」と納得する、自分自身をありのまま大切にすることで、傷跡は美しく広がるのだ。

傷ついた心をさらに辛さへと突き落としにかかる、マイナスの力に対抗できる強い力は、愛しかない。

相手を、自分自身を、大事にするための愛である。

傷を他の人と語り合い、共感したりなぐさめたり、自らが能動的に受け入れ愛して始めて、傷ついた心は美しく、やさしいものになる。

「語ることが回復になる」というのはそういうことだ。

自分自身を丁寧に言語化し、納得してあげる。
やさしさを、自分自身に使うということ。
醜さを癒し、美しくなるということ。

そうして紡がれた語りは、ほかの誰かへ、やさしい音色で届くのだ。

愛に満ちた心は余裕を持ち、人にやさしさを向けられるようになる。




彼は在学中から日本財団のボランティアをしたり登壇したり、積極的に障がい者の人々へやさしさを与えていて、本当に尊敬する友である。


*

先ほどの教授の原文を読んだら、そこにbeautifulという単語を見つけ、より納得した。

They fully embraced vulnerability.
(彼らは心のもろさを受け入れていたのです)
They believed that what made them vulnerable made them beautiful.
(彼らはこう信じます 自分たちの心をもろくするものこそ 自分たちを美しくする と)


やさしさには、どこかに必ず愛と勇気がある。
美しさの理由には、もろさへの許容がある。


第一印象では、なんだか綿あめみたいなやわらかいイメージだった「やさしさ」が、突然、餡子が詰まった屈強なパンに思えてきた。


愛と勇気。さあ、歌が聞こえてきたぞ。


第4の考え…やさしさ=自分をも大事に出来る、愛と勇気



まとめ

さて、長くなってしまった(眠くなってしまった)ので、この辺りでまとめたいと思う。

第1の考え…やさしさ=安心感?((←これはちょっと違う
第2の考え…やさしさ=傷つくことを知っている?
第3の考え…やさしさ=not受動態but能動態、愛、コミュニケーション?
第4の考え…やさしさ=自分をも大事に出来る、愛と勇気


以上を受けて、#やさしさってなんだろう?


無理矢理、簡潔にすると、

やさしさとは、愛と勇気を持ったコミュニケーションである。
そしてやさしさを持つ人は、傷つくことを知っている(傷跡を持っている)。

人に与えるだけでなく、自分自身も含めて大切な循環のひとつとする、それがやさしさだと思う。

パンの頭を持ったヒーローは、お腹が空いて悲しくなっている人々に、自分の顔をちぎってあげる。それを食べた人々はやさしい甘さに癒され、元気になる。
彼自身にやさしさが含まれていなければ、やさしさは実現しない。


だから、やさしさに満ちた世界というのは
◎ひとりじゃなくて人とつながれる(やさしさ=コミュニケーション)
◎弱さをさらけだせ、それを良しと出来る場所(自己責任、で放り投げない)
◎やさしさを求める人自身も、依存せず自分を大事に出来るよう、語ることのできる場所

多様性よりも「許容」(自分も他人も両方)できる空間かなあと私は思う。
なので、リバ邸のような駆け込み寺、soarみたいに語り合う場所、そういった空間づくり(現実、電脳問わず)の可能性は、やさしい世界の実現に近い素晴らしいことだと、心から思わずにはいられない。傷を知る人が作っているのだから、本当にやさしい。素敵なのだ。(信者や広報担当ではない)



以上を受けて、「やさしさを私は持てるのか?具体的に持つ、実現するには?」を書こうと思っていたが、やっぱり眠くなってきたので、これはまた次回のお話にしよう。





つづく。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
note.user.nickname || note.user.urlname

いただいたご支援は私が生きることに使われます。そうして他へ還元します。よりクリエイティブな活動を目指すので、応援してくださると嬉しいです。

気持ちを、そっといただきますね。
13
1995年うまれ。絵と言葉をかく、イラストライターです。最近、デザインも取り組み中。日々の私が感じる悲しみや面白いことなど、感情を残していきます。

こちらでもピックアップされています

#やさしさってなんだろう
#やさしさってなんだろう
  • 49本

2018年10月から行なったハッシュタグキャンペーン「#やさしさってなんだろう」のコラムを集めました。

コメント (1)
しーちゃんさん

#やさしさってなんだろうのコラムを執筆してくださってありがとうございます✨
たくさん書いていただけてとっても嬉しいです!
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。