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リアルでアクチュアルでヴィルクリヒカイトな現実

突然だが、カントは神様の存在について書いたもので、

あるということは明らかに何ら実在的述語ではない。

カント『純粋理性批判』先験的弁証論第三章より

と言っている。僕が持っている『純粋理性批判』は古い訳書なので(河出の世界の大思想10ってやつ)今岩波とかのやつがどんな風に訳されているか正確な所はわからないが、「存在はレアールな述語ではない」という風に言われて検索すると出てくる位に有名な言葉だ。

英語で現実といったとき、リアルrealとかアクチュアルactualという言葉がある。
①リアル 嘘や架空ではなく本物の
②アクチュアル そうではないかもしれないけど実際は
というニュアンスの違いがあるらしい。
カントが「存在はレアールな述語ではない」と言ったとき、どっちの意味で言われているのだろう?と考えてみたが、ここには何かズレがあるような気がした。
リアルもアクチュアルも、その中身が問題になっている。本物だったり実際にそうだったり、そのもの自体が「ある」ことは前提として、それが嘘かホントかという所が問題になっている。
前述の言葉でカントが問題にしているのは、その「ある」ということ(存在)自体はレアールかどうかだ。「ある」という言葉(述語)は、中身とは関係ないと言っているということだ。

カントにとってレアールとかレアリテート(実在性)は、それが何であるかという物事の事象内容や属性を表すものなのだ。一方で現に「ある」ことはヴィルクリヒカイトwirklichkeit(現実性)という言葉で言われているようだ。
ではカントは何故わざわざ現実をレアールとヴィルクリヒカイトに分割しなければならなかったのだろうか。

カントの課題が教科書にも書かれているように経験論と合理論の統合だったとすると、僕らが目の前で体験すること(感性による感受=経験)とそれが頭で考えられていること(悟性による知識=合理)が一致するような状況はどのようになっているのか、を説明しようという試みが『純粋理性批判』だということになるだろう。
ここでの話で言えば、「ある」こと自体は感性・経験に対応し、それが何であるかは悟性・合理に対応する。僕たちはそれらを一致させることによって目の前の光景を意味あるものとして認識することができる、というのがカントが描く世界だろう。

これがカントの世界だとすれば、僕らは世界を二つの現実(レアールとヴィルクリヒカイト)の一致として認識することになる。目の前の体験だけでも、知識だけでも成り立たない。それを上手く一致させることができることこそ、理性が示す現実の認識のあり方なのだ。

この一致は、例えば目の前のコーヒーカップについては間違いなく一致しそうな気がする。僕たちが自然界にあるものを認識するというときには、このカントの説明はすごくわかるものではないだろうか。
しかし、何故悟性と感性は一致するのだろうか。一致しない場合は、どうなるのだろうか。
ここから別のことを考えられそうな気がするので、次回(いつになるやら…)もう少しこの二つの現実の一致について考えてみたい。

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