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いのちの選別の先には味気なく殺伐とした未来しかないと思う。(いのちを“つくって"もいいですか? 生命科学のジレンマを考える哲学講義 )

島薗進著「いのちを“つくって"もいいですか? 生命科学のジレンマを考える哲学講義」を読みました。 

医師がALS患者を殺した事件をきっかけに安楽死についてふと考えることがあったり、人工知能の技術が進歩し続けて人間らしさとは何かという疑問が頭をよぎったりする。そんな毎日を過ごしていて、ふと立ち寄った古本屋でこの本に出会った。

1. いのちを ”つくって” もいいですか?

タイトルのこの問い。簡単に答えられる問いではないし、答えがある問いでもない。

いのちをつくる技術は、体外受精や卵子の凍結、クローン、遺伝子操作、キメラなどがある。わたしは、自分の体外受精と卵子の凍結までは許容できるが、それ以外は受け入れられないと感じる。いのちの選別や強化に繋がらない場合に限り技術を利用しても良いと思う。なぜなら、いのちを選ぶことはいのちに優劣をつけることであり、いのちの強化は終わりのない激しい競争の始まりだからだ。技術利用で、いのちの選別や強化を加速させてしまえば、その先にある未来は「優れた人間」ばかりの味気なく殺伐とした社会だろうと想像する

技術の進歩でどのような未来が待っているのか。本書で紹介されていた、オルダスハクスリー著の「すばらしい新世界」を読んでみようと思う。

2. キリスト教と仏教 の いのちに対する価値観の違い

本書を読んでいて面白いと思ったのは、キリスト教徒仏教でいのちに対する価値観が違うという話だ。

キリスト教文化圏では個のいのちが尊重されているが、日本を含むアジアの文化圏では共同体としてのいのちが尊重される傾向にあるという。そのため、個のいのちを重視するキリスト教文化圏では、妊娠中絶への反対意見が強いが、共同体存続を意識するアジア文化圏では人口が増えすぎるリスクが考慮されて、妊娠中絶が受け入れられてきた文化的な歴史があるようだ。

また、「我思うがゆえに我あり」で有名なデカルトの二元論では精神と身体は別で、精神がこの世からなくなった時が人の死であるという考え方をするが、仏教的な考え方では人のいのちは人や自然とのつながりの中で初めて認識・存在するものなので、いのちの誕生や終わりはデカルトの考え方のようにハッキリしたものではなく、連続していて曖昧なものだと考える傾向にあるようだ。

わたしは何か宗教を信じているわけではないが、仏教の価値観が根底にある日本で育ち、自分の価値観の根本は仏教的な考え方に近いと感じた。

また、これを機にずっと読まずに本棚に置いていた梅原猛さんの仏教の本を近々読んでみようと思う。