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私はいかにして私になったのか

先日UX Engineer Meetupで登壇した内容をnoteに公開した。

この場では「UXエンジニア」としての今のキャリアまでの成り立ちと実践していること、これから力をいれたいことを偽りなく話した。

実はこの15分ほどのLTで話すにあたり、違うエピソードも考えていた。このエピソードははじめてのイベントで放つにはすごく個人的すぎる内容な気もしたので避けたが、せっかくなのでnoteとして公開してみようとおもう。

これは登壇時に話した内容ほど、いうなればキレイな話ではなく、個人の欲求からはじまるストーリーだ。

ミュージシャンズ・ミュージシャンに憧れていた

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これは大学生の頃にバンドをやっていたときの写真。バンドをやっていたと言っても、別に音源を出すとかレーベルに所属してたとかでもなく、ただの軽音サークル活動と少しの外での活動をしてた程度。軽音サークルや軽音部での活動としては、9割以上は既存のアーティストのコピーバンドをやる。それは僕も例外ではないのだが、コピー以外にオリジナルで曲をつくることもやっていた。

当時一緒に活動していたベーシストがいつも変わり種な音源を持ってきてくれた。ボアダムスやスターリン、カウパーズ...広く言えばオルタナティブなもの。一方、僕も元々オルタナ好きではあるが、好みはナンバガやモーサムトーンベンダー、PEALOUT、ART-SCHOOLやSyrup16gといったあたり。

こうした音楽性は聴くことを専門に好んでいる人がいる一方で、演奏することを楽しむ側からみてただただ「カッコいい」のだ。意味があるような、ないような歌詞、少しひねくれたリフ、聞き手を気にしない緩急のある進行、どこにいってしまうのかわからないノイズとハウリング。

彼らのような存在は、同業の人たちも憧れ、尊敬される「ミュージシャンズ・ミュージシャン」のような存在。自分たちが気持ちよく、そして周りのミュージシャンに「すげぇ」と言われるようなもの作りたくなる気持ちが湧いて、気づけばコピーばかりではなく、オリジナルで曲をつくるようになった。

ほとんどはキャッチーとはいえないものばかりだが、演奏してみると共演する人やライブハウスの人には好評だったりする。「こういうアレンジや進行はどうか」を試し、それが評価されることは嬉しい。今思えば、これらはただの承認欲求に過ぎないが、表現すること、実験をすること、それを評価されることは今に繋がる原体験のようなものなのでないかと思う。

「おっ」と思われるものをつくりたい

社会人として働きはじめた最初の仕事がWebデザインという仕事だった。小さなベンチャーで、自分でWebサイトのデザインをし、コーディングをしていた。当時にWebデザインの周辺技術を学ぶとなると、ネットはもちろん、雑誌をよく読んでいた。当時の僕から見ればポップスターやロックスターのようなデザイナーやアーティストの実績やインタビューをみて刺激を多く受けていた。ただ僕の好みとして、賞をとるような広告作品よりも、新しいシステムやツール、Webサービスが好きで、かつイケてる表現と両立しているものに惹かれていた。

僕はonopkoさんが憧れで、例えばNIPPON COLORSは好きなサイトのひとつ。当時でいうと、海外にはごろごろいるようなCSS3表現でのデザインを日本人の人で、こうも美しく表現できるかと感心した。これこそデザインとテクノロジーを掛け算によって生まれたものだ、と自分もつくりたいと思うようになる。

じゃあなぜそういったものを作りたいのか、という根源には学生時代の「ミュージシャンズ・ミュージシャン」に近いものがあるのではないか。いわば「デベロッパーズ・デベロッパー」になりたいというような。純度100%で「(ユーザーや開発者含め)みんなに役立つものを作りたい」ではなく、どこかで「すげぇ」と思わせたい気持ちは少なからずある、僕の場合。そして公開や共有したものの反響がなかったときは残念な気持ちになる。

もちろん、ツールなどを作ること自体を目的とするのは典型的なアンチパターンではあるが、どこか作ることそのものに燃えるときはある。十数年も同じような仕事をしていると、どこかで手を動かすことを止めることを考えることがある。それはもっと大きく物事を動かすために捨てないといけないことではあるが、やっぱり手を動かしてデザインし続けること、コードを書き続けたいという気持ちはどこかにある。心の平穏のために、そうした本性に対する欲求を、承認欲求の次の自己実現の欲求として心に停めておきたい。

「私」は何になりたいのか

先の講演では、僕の考えるUXエンジニアの働きとして、デザインとエンジニアリングのブリッジとそのカルチャー作りという話をした。これは僕が経験してきた環境や、今の環境において必要であると感じ、またそこに自分の力を発揮できるところがあったからだ。それをひとつのUXエンジニア像として語ってみたわけだが、別にそれだけが職責だと思っているわけではない。

本来は「守り」のようなポジションではなくて、デザインとエンジニアリングの掛け算による新しい発想、いわば「攻め」としての価値を発揮できるポジションでもある。それはGoogleがUXエンジニアに求めている「優れたデザイン感覚と技術的なノウハウを活かして次世代のプロダクトを開発するポジション」というのは、そういうことなんだと思う。もっといえば、UXエンジニア個人がそうあるべきなのではなく、チームとしてもっとデザインに取り組める環境をつくれるか、なのだろう。

話を戻すと、そうしたブリッジとして役割は本人としては天職と思っているわけではない。プロジェクトの状況によってはひたすらMarkdownや遷移図だけを書いているだけのこともあるが、本音はディティールに頭を抱えながらUIデザインをしたいし、UI実装をしたい。それはプロダクト本体ではなく、開発者にとって価値あるものでも良い。その欲求をデザインシステムのような大義名分で満たそうとしているところも正直ある。

そうなると、講演の中で触れた、Airbnbにおけるデザインテクノロジストの方が、自分の性には合っているのだろう。彼らの作るものは、一見すると「業務効率化」のためのツール群のようではあるが、それは正しいが正しくない。繰り返すようだが、デザインに向き合う時間を増やすためなのだ。

「私」はもっとデザインしたい。個人としてもチームとしても。いやそれに留まらずにみんながデザインに向き合えるようになってほしいのだ。それは所属するチーム以外の会社のみんなでもあるし、外部環境なりOSSなりで公開するのは、社外のみんなの役に立つならばと思うからだ(OSSにおいては、コミュニティで育て上げることに大きな意味がある)。そうした自己実現の先の自己超越欲求がここにある。

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ここまでのキーワードで気付いた方もいるかもしれないが、承認欲求自己実現欲求自己超越欲求は、マズローの自己実現理論になぞらえてみたが、愚直にこうした欲求で成り立ってるのだろうと思う。

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...という戯言ではあるが、今あらためて「私」を僕が振り返るための重要な側面であったので、書き残すとする。(了)

明日の元気の素になります。