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「真我」って言うくらいだから。



「真我があるからもう大丈夫だ。」

という表現を聴いたりすることがある。


こう聴くと、何か真我(本当の自分)という存在が

別のどこかにあって、普段のわたしとは「別」の、自分。


本当の、自分。というのが何か「別」にあって


それが、いつも自分を見守ってくれているんだ〜〜


というような解釈に感じられる。


けれど実際、そのセリフを語っているのは思考で

いつもの自分というのは、思考そのものなのだ。


真我があるからもう大丈夫。

と考えるのは誰だろう?


そう、それは思考です。



他にも、〇〇だから、大丈夫。

と、理由のある、大丈夫を思考はいつも求めて

見つけては束の間の安心をするが


その「見つけた」という思考自体が変化の中にあるものだから

やがてそれは消え、やはりまた

「大丈夫じゃないかもしれない」

と考えている。



真我が、あなただ。


あなたが、真我だ。



真我が別にいるわけではない。


真我が別にあると考え、

真の理解を妨げようとしているその張本人


それが思考である。


見守れられているのが、あなたなのではなく

そのあなただと思っているその想念自体を


まさに見守っているのが、"あなた"なのである。



真我という特別な何かを追い求めるのではなく


すでにあなたがそうなのだとくつろいだ時



あなたは「思考」を完全に目撃しているはず。


すると、ハイヤーセルフだとか、真の自己など


何かそれらを上に置いて、「守られている」といった

解釈にはならない。



なぜなら、真の自己が、「あなた」だから。


だって、「真の自己」って言うくらいですからね(笑)


真の自己、真我

と言っているのに、それが別のものだと捉えたがるのは


よほどその思考があなたを飛躍させたくないのでしょう。


言葉とは盲目だ。

真の自己。

と表現しておきながら、

それを何か「別の自分」だと思わせてしまうのだから。


それだけ、エゴ(思考)は


それ自体を自分だと思っていてほしいのだろう。


けれど、それを超えた時、その人には



ヨロコビしかない。

愛しかない。





ただ、ここでまた言葉の勘違いをしてはいけないのが


「それを超えた時」と表現しているとき


それを超えるのは、思考ではない。

いつも自分だと思っているそれではない。



本当のあなたは、超える必要なんてないのだ。


もう、それだから。




あなたが、真我だ。



真我という言葉は、真我を表すための「表現」にすぎない。



あなたは、"あなた"だ。



あなたは、"それ"だ。

も、いいかもしれない。



いやあ〜でもほんとね、
「真我」っていうくらいだから


"真我"なんです(笑)



うん。
真我とはよく言ったもんだよなあ〜〜(笑)




まあ最後には、その言葉も消滅するけれど。



真我は別物ではなく、まさに、あなたです。




思考じゃないよ、"あなた"だよ。

(ひよこじゃないよ、コッコだよのノリで読んでください)

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