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パティシエ&ドラマー 前島剛さんにお聞きしました【音楽編】

山梨県北杜市で、洋菓子店『ふらんす屋』を営む前島剛(まえじま つよし)さん。プロミュージシャンを目指して18歳で上京。バンド解散後は地元山梨に戻り、ナイトクラブ専属バンドのドラマーとして生活するも、25歳の時に転職を決意。パティシエとしてホテルで10年間働き、35歳で独立。その後20年以上、地元の洋菓子店で1人毎日ケーキを焼き続けています。

何事も、やると決めたら手を抜かずにとことん向き合う前島さん。その姿勢から生み出されるケーキにも音楽にも、長年積み重ねられた経験が深く感じられます。

これまでどんな人生を送られてきたのか、音楽や洋菓子に対する思いをお聞きしました。

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自作の空き缶ドラムで遊んでいた小学生時代

ー いつごろから音楽をやっていたんですか?

親のすすめで、小学2年頃から中学までバイオリンを習ってたんだよね。

家では、母親がマンドリンを、2人の兄はギターをやっていて、そういう環境だったから楽器や音楽は自然と好きになったね。中学の時から、兄のクラシックギターも借りて弾くようになった。

ー ドラムはいつから始めたんですか?

小学4年くらいの時、何故かは忘れたんだけど、急にドラムに興味を持つようになって。

給食室の裏から、大小様々な空き缶をたくさん拾ってきて、それを並べて自分でドラムみたいなものを作ったんだよね。大きな空き缶は、給食室の裏でしか手に入らなくてね。

その缶にビニールを貼ったり、音の高低差もつけて並べて、缶の蓋はシンバルの代わりにして、それを菜箸なんかで叩いたりしてたの。それが今のルーツだね。

ー うわー。それはすごいですね!実際今そんな感じのパーカッション使ってる人いますもんね。石川浩司さんとか。

あの頃は何もなかったからね~。

中学の文化祭で先輩がバンドをやっていて、それが生のバンドや本物のドラムセットを初めて見た時。すごいなあって思ったよね。今から40年以上前なんだけど。

当時、漫画雑誌の裏によく楽器のカタログが載ってたんだよね。そのカタログの中にあったドラムセットが欲しくて欲しくて、毎日そのカタログを見ていて。

それを覚えていた建築家の親父が、ある時物置を取り壊す仕事に行ったら、たまたまその物置の中に古いドラムセットがあって、それをもらってきてくれたんだよね。

ー なんと!それは良かったですね!

それまでずっと空き缶で作ったおもちゃで遊んでいたから、始めて本物のドラムを手にしたときにはもう、エイトビートが叩けた!

でも当時、ドラムを教えてもらえるような人は誰もいないし、ビデオもないし、譜面も読めないから、ただ耳で聴いて真似するっていうことをひたすらやってたんだよね。

すべてが耳コピだった学生時代

ー 高校時代はどんな練習をしていたんですか?

当時ドラムをやっている人自体が殆どいなかったから、自分はその頃にしては結構上手かったのか、先輩のバンドに誘われて。

みんなフィーリングで演奏してたよね。チューナーもなかったし、全て耳で聴いたことを再現するみたいな感じだったから、みんなすごく耳が良かったと思う。

ギターにしても、ビデオを見て音を聞きながら、このタイミングでこういう風に音が出てるってことは、たぶん左手はこうやって弦を押さえてるはずだとか、考えて弾いてみたりしたよね。

やりたい曲の楽譜も手に入らないから、自分で聞いて真似したり想像してやってみるしかなくて、全てが耳コピだったよね。

ー ああ、そうやって人の能力って伸びていくんですよね。今は頼れるものがありすぎますもんね。

でも、だから昔の人がすごいって言いたいわけでもないんだよね。だって、ものすごい時間かかるじゃん。効率は悪いよね。

まあ、そんな感じで高校時代はとにかく、がむしゃらだったよね。ただただ音楽が好きなだけだった。

でもここは田舎で、田んぼと山しかなくて、音楽をやるにはやっぱり東京に行かないと何も始まらないなと思っていたんだよね。

東京で過ごした3年間

ー 進学っていう理由をつけて、東京の調理師専門学校に行ったんですよね。何で調理師専門学校に?料理が好きだったんですか?

まず、大学は入れなさそうだし、専門学校だったら楽かなと思って。笑

料理が好きだったとかでは全然ないんだけれど、なんとなく。とにかくバンドをやるために東京に行く理由が欲しかった。

だから専門学校ではバンドばっかりやってて、半年しないうちに留年決まっちゃったけど、卒業は何とかしたよ。笑

その専門学校の仲間とのバンドで初めてオーディションを受けてみたら、いきなり1位で通過したんだよね。

ー えー!すごい。どんな編成だったんですか?

男女のアコギボーカルと、エレキギター・ベース・ドラムの5人。フォークロックみたいな感じ。

その後もなんだかすごくうまくいって、いろいろなオーディションで1位になれて・・・俺は結構やる気になってたんだけど、他のメンバーがだんだんびびってきちゃって。

単なる腕試しのつもりだったのに、周りの反応がすごくて、プロになれるかもみたいな話がだんだん現実的になってくると、みんな怖くなってきちゃって。

「いや、俺実家のスナック継がなきゃいけないし」とか。笑

結局そのバンドは解散しちゃって、自分も東京には3年いなかったんだよね。

あんなに来たがってんだけど、あのごみごみした雰囲気が嫌になっちゃって、急に帰りたくなっちゃってさ。就職もしてないし、バンドもなくなっちゃったし。

山梨に帰ってきて、仕事としてドラムを演奏する日々

ー でもドラムはやりたかったんですよね?

実は、山梨にいた頃誘われていた話があって、その時は東京に行くからって断っちゃったんだけど、その話を受けることにしたんだよね。パブの専属バンドでドラムを毎日演奏するっていう仕事。

元々その店にいたドラマーで、自分の師匠みたいな人が、アメリカに行くからって誘われたんだけど、引き継ぎの期間があって、 店側としては2人のドラマーの給料は払えないって言うから、その人が俺の給料を出してくれてたんだよね。月5万円ぐらい。

だけど甲府にアパートを借りたから、それじゃあ生活できなくて。だから、そのパブで24時まで働いて、そこから違うパブのキッチンで朝の5時まで働いてたんだよね。時給500円で。

その厨房でつまみとか作ってたんだけど、歌手の出演時間になると、エプロンを外して、ステージでパーカッションとコーラスをやっていたんだよね。

ー すごいですね。超マルチ。

それでも収入は月10万円くらいで、1日1食しか食べられなかった。

周りのミュージシャンは、どんな曲が来ても初見ですぐ演奏できるっていう人たちばかりだったから、自分も鍛えられたね。

「曲知らないから演奏できません」とかはありえないし、譜面がなくても、ビートを刻んでいて違っていたら誰かが言ってくれるだろうっていう感じで。

よっぽど変わった曲じゃなければ、ブレイクの時は空気を読めばわかるし、その時から全然知らない曲でも平気で演奏できるようになったんだよね。

ー それを何年やったんですか?

5年くらいかな。甲府の色んなキャバレーを転々としてた。

キャバレーって言ってもすごいんだよ。ビッグバンドが入れるようなステージがあってさ。マジックショーとかストリップショーのバックでも演奏してた。

演者側からのクレームも多くて厳しかったけど、おかげでどんな曲でも演奏できるようになったよね。

でも、その頃だんだんレーザーディスクが流行ってきて・・・

レーザーディスクに仕事を追われてから、就職をするまで

ー 生演奏がレーザーディスクになったってことですか?

当時は、いろいろな店が生バンドにかなりお金をかけていた時代だったんだけど、そんなお金を払うより、レーザーディスクのカラオケがあればいいじゃん、ていう空気になっていったんだよね。

生バンドに勝るものはないと思うんだけど、経営者の人達って生のバンドにあまり価値を感じてなかったんだろうね。残念だけど。

それで急に店をクビになって、行くところがなかったんだけど、その後すぐ知り合いのムード歌謡のバンドに誘われて、最後はポニーキャニオンからレコードを出したりしたんだよね。これ。ちなみに俺はいちばん左。

ー おお!ほんとうだ。このバンドはどのくらいやっていたんですか?

2年くらいかな。でも、バンドって仕事になっちゃうと楽しくなくなっちゃって。最後は嫌でしょうがなかったんだよね。

その後は、このバンドが活動拠点にしてたスナックの店長をやっていたんだけど、もうバンドもないし、なんだかここにいてもダメかなあと思って。それが25歳の時。

それでホテルに就職して、その時点で「俺はもう二度とバンドやらない」と思ったんだよね。

5年ぐらいはホテルの仕事に没頭したよ。ちょうどその頃に結婚もしたんだけど。

ー そうなんですね!なんでホテルに就職しようと思ったんですか?

一応、調理師専門学校を卒業してるから、コックができそうなことかなと思ってホテルに入ったのね。でもコックは余ってるから、パンとかデザートを作ってほしいって言われたんだよね。

そこは、パンも委託の人が作っていたり、フランス料理のコースでもデザートはアイスかプリンしかなかったんだよね。

そこを大分改革して、ワゴンサービスやウェディングができるまでにしたんだけれど。

ここでも教えてくれる人がいなかったから、全部自己流。たくさん本を読んで、2週間に1度くらいの休日には系列のいろいろなホテルに研修に行って、もうとにかく勉強して、練習したよね。朝から夜遅くまで。

本によって、少しずつ手順や量が違うから、全部試してみたり、多分こうやったら失敗するだろうなっていうことをわざと実践したり。

そういうことを全部記録して、自分のベストなレシピ本みたいなものを作っていったんだよね。

ー なんだか音楽の話とかぶるような気がしますね。

でも5年くらい経った頃、地元のライブハウスから「バンドを手伝ってもらえませんか」っていう電話が来て、それまで働き詰めだったから、自分の時間もあってもいいかなあと思えて、ちょっとくらいだったらいいですよって言ったんだよね。

最初のホテルは一度辞めたんだけど、どうしても回らないからって言われて戻ったりして。でも、売上が落ちてきたら、上からの圧力がだんだん強くなってきて。

「休みが取れない」って言ったりすると、「別に休めばいいんだよ。物なんかいいものじゃなくても、あればいいんだ。」って言われたりして。

ー バンドがレーザーディスクになったみたいな話ですね。。。

デザートの担当が自分しかいないから、自分が休んだ分って誰もやってくれないし、自分の思う最低限のクオリティを維持するにはそう休めないし。

そこで更に、会員制のホテルを敷地内に増やして、そこのデザートを任せるからって言われて、これ以上どうやるんだよと思って、その一言で一気に冷めちゃって、もう辞めようと思って。

雇われとしてパティシエをやっていたのは10年くらいなんだけど、突然辞めようって思ったときが、ちょうどこの家を建てている途中で、急遽建設中の家に厨房と店をつけることにしたのね。

だからこの店、変な形なの。笑

でも、いざ冷蔵庫とかいろんな機械とか入ってきたらちょっと怖くなってきて。店に必要なものが全部で、ゆうに1000万円以上かかったから。

それが35か6歳ぐらいの時で、勢いでできたけど、今じゃ絶対できない。笑

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音楽に夢中だった学生時代から、紆余曲折を経てホテル勤務のパティシエ~独立と、場所は大きく変われど、その都度目の前にあることに、真摯に打ち込む前島さんのお話しを聞きながら、襟を正したい気持ちになりました。

後半【独立編】では、お菓子を断って半年の私が前島さんに、近年うたわれている「身体に良いもの・悪いもの」についてなど、お伺いしています。9月29日に更新します。

前島剛 (まえじま つよし)
10年間ホテル勤務の後、1995年より山梨県北杜市で、パティシエとして洋菓子店『ふらんす屋』を1人で経営。ドラマーとしても、様々なバンドで活動中。
【ふらんす屋】
山梨県北杜市長坂町長坂上条1511-73
営業時間: 午後1時頃~7時頃まで。
定休日:毎週水曜日(臨時休業あり)
電話:0551-32-5616

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いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。