見出し画像

自分の変化の記録

今年に入って、1月はなんだか絶好調だった気がするのですが、2月後半からいろいろ停滞して、これはヤバイと思って自分の中でものすごく試行錯誤してきました。

改めて思ったのは、私はほんとうに友人に恵まれているなあということ。そして、去年からコロナ禍に後押しされて、自宅にいながら全国世界誰とでも顔を見ながら話せるじゃんということが、けっこうな共通認識になって、これにもほんとうに救われた。この1年間は、もしかして山梨に帰ってきてからの11年間でもっとも、いろいろな場所に住むいろいろな人と深く長く話したんじゃなかろうか。

しかも話が盛り上がると定期的にまた喋ろうとなる。(だいたい2週間に1回とか。)

1対1が最も多かったけれど、同じメンバーのグループで何回も話したりしたなあ。

もしコロナ禍なんてものがなく、これまでと何も変わらずどこにでも自由に行くことができていたら、逆にこんなに多くの人と、普段はそこまで話せない話題を深くすることもなかったと思う。

あと手紙も結構書いた。これはこれで、手紙特有の時間軸が果たす役割があるともすごく感じた。

メールやDMやLINEみたいに、すぐ返さなきゃいけないとか、重要な案件とか全くそんな要素はないのだけど、だからって迷惑メールみたいに簡単に捨てたりするもんでも絶対にない。

1カ月後とかでも色褪せないことで、ゆっくり伝えたい話題もあるのだ。

実際に会えないのに、ものすごくコミュニケーションに特化した一年だった。そのうえですれ違いや、すれ違ってないんだけど辛いこと、長年自分が思い込んでいたことに向き合う機会もあった。

自分のことは自分が最も見えていないなあと、つくづく思う。

ひとに対しては、なんでそんなに自分をないがしろにするのか、もっと自信を持っていいのにと思うのだけれど、私は私で、冷静に考えたらあまりに自分を犠牲にし過ぎだろうと思ういびつな人間関係に長年気づけないでいたりした。友人だったらぜったい止めてる。いや、おかしいでしょうと言っている。

なんで自分で気づけない、というか気づかないふりをしているかというと、それを認めるということは、自分が乗り越えなければいけない自分の弱さに向き合わなければいけないからなのだ。

いやー、やっぱり自分をちゃんと見つめるって大変。大人になっても。

なんかそんな行為も、たくさんしてきた気もするんですよ。いろいろなことを乗り越えてきたと思う。

だけど、自分の弱さに向き合うって、人生で1回だけすればいいってことじゃ全然なくて、いろんな場面でいろんな弱さを少しずつ補強していかなきゃいけないんだよなと思う。

そこで強くなったら、またもうひとつ上の段階で、もうひとつ上のレベルの自分の弱さを知るような。

仕事面でそれを乗り越えて行けても、恋愛面では乗り越えられずに長年とりこぼしてしまうとか、そういうこともあると思う。

でもなるべく、そういう弱さは全体的に補強していきたい。そうすることでやっと、今までどうしてもできなかったことができるようになるんだなと思った。人は永久に成長していけるし、だから永久にできることが増えてたぶんそうしたら永久に楽しいんじゃないかと思っている。

部屋をきれいにしたいなと思っても、一箇所だけずっと古いカーテンのままだと気になるでしょう。全体をきれいにしたいよね。

(ちなみに私の部屋には窓が3面があって、実際ずっと一箇所だけカーテンが古かったので、最近やっと新しいものに変えてすっきりした。)

というかんじで、すごく抽象的だけど、ここ2カ月くらいはそんなことと戦っていて、そして気がついたらとても部屋がきれいになっていて、白紙のページが増えていた日記もまた毎日たくさん書きたいことが出てきて、サボっていた習慣も復活してきて、あとはnoteをもっと書きたいところだけど、よく毎日書いてたなと思っているところ。

以前はちゃんと下書きをして音声入力をしていたんだけど、今これはいきなりnoteの画面に打ち込んでいるので、読みにくいと思うけど、とりあえず今の気持ちをメモ。

また書きます。

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。