見出し画像

居場所の役割

個人の力でどうにかできることと、できないことがある。または、できる人とできない人がいる、というべきか。

この記事を読んで、自分が言葉にできず、あちこちに散らばっていた思いがひとつにまとまっていくような気がした。

私たちは、自らが持つ有限の「やさしさ」をだれに配るべきか、つねづね慎重に見定めている。私たちは「やさしさ」を道行く人へ適当に与えたりしない。自分の「やさしさ」を、もっとも喜んでくれる人に与えたいし、もっとも見返りが大きそうな人に与えたいと考える。私たちは「やさしさ」を一種の貨幣のように扱っている。

これはあえて極端な言い回しをしているのだと思うけれど、私もこの社会に暮らして、すくなくとも「やさしさは誰しも平等に与えられている」などと思ったことはない。自分も、出会う全ての人に平等にやさしく接しているなんてことは、言えるはずもない。

やさしさの分配は、常に不平等だ。やさしさに限らず、あらゆることが常に不平等にふりかかってくる。

人間の辛さを解消するために必要な言葉は、「人と比べなくてもいいじゃない」だけでは不十分なのだと、私はいつも思っている。

お酒がやめたくてもやめられない人に対して「お酒なんて飲まなければいいじゃない」という言葉が何の役にも立たないと思うことと同様に。

人間は、絶対評価をあまり重要視しない。他人と比べて相対的に自分がどんな位置にいるかを測ることによって、幸不幸を感じるものだ。それが社会的関係性を築くことで生き延びてきた、私たち人類という社会的生物の宿命でもある。

この記事は、相対評価は宿命だという前提から書かれている。

まず、生きていて人と比べてしまうのは仕方がないことなのだと、改めて考えてみる。それは、スマホの消せないアプリのように、デフォルトで自分に備わっているのだと思う。周囲の環境に適応しているかどうかを確認することは、生きやすくなるすべだったからだ。

しかし「比較」は突き詰めると、場合によっては執拗な呪いになりうる。

それらを、どう克服していけばいいのだろうか。

本当なら、自分が比較してしまう全ての対象と関係を断つことができたらよいのだけれど、そんなに簡単なことではないと思う。

日常の中で、自分の素性も相手の素性も分からない状態で、気軽に話ができる場所があったら、だいぶ気持ちが違ってくるのではないかと思う。

***

フリーライターの鶴見済さんが毎月1回東京で開催している『不適応者の居場所』というイベントがある。

このタイトルに惹かれた人が、ただ集まって駄弁るだけの会。みんなで「何かを作ろう」などという目的もない、あくまでひたすらに駄弁るだけの会。こういう場所が、今とても必要なんじゃないかと思っている。

ここでは、団結して何かを成し遂げるわけではない。ただそこに行って話すだけ。毎月行きたい人も、たまに行きたい人も、元気だったら行きたい人も、初めての人も、不適応者というワードが気になった人同士だと、不思議に話が弾む。

東京で開催しているのに、大阪など遠方からやってくる人も何人かいるようだ。

こういう場が全国各地にあったら、救われる人はたくさんいるのではないかと思う。実際、似たような試みは実はたくさん行われているのかもしれない。自分も10年くらい前にあったら毎月通っていたのになあと思う。

インターネットによって疲れたりもするけれど、インターネットをツールとして、こういうふうに情報を知った人が集まれることもまた、時代の良さだと思う。

誰かと気兼ねなく話せる場所があったからといって、自分の悩みがすぐに解決するわけではないけれど、そもそも、だいたいのことはすぐに解決しないのだと思う。

そう考えながらも、日常のなかでたまに救われる場所があれば、少しずつ自分の生き方も変わってくるかもしれない。これからどんどん拡大されるべき試みだと思う。

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。