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京都探訪―――自虐、静寂、ありのまま

 世の中には旅がある。短い旅、長い旅。修学旅行、研修旅行。駆け落ち、ハネムーン。では私の京都探訪は何だったか。逃亡である。それも出来損ないの。
 二〇一七年一月某日。何もしていないのにパンクしそうになっていた。昨年からやろうとしていた計画は何一つ叶えられていない。「燃え尽きた感じがする」とか何とか言って門を叩いた学生相談室にはかれこれ二ヶ月顔を出していない。それどころか今日だって本来ならばカウンセラーの面会が予約されていた。「今日予約入っていますからね!」という二時間前の留守電を改めて聴く。しかし電話を掛け直すことが、まるで何かに禁じられている気がするのだ。
 しかし…、昨日だって懇意にしてくれているボランティア先を無断で欠席したじゃないか。このままじゃ居場所を無くして、家族とも疎遠になり、孤立は発酵を通り越して悪臭を放つだろう。そんな臭い私に誰が近づくのか。…しかしまるで誰かに禁じられているかのような…、よしわかった。行けば良い。行けば楽になる。二か月間連絡もせずにどうしていたかをカウンセラーに正直に話せば良い。
 その時再び電話が鳴った。パジャマのズボンを半分まで脱いだ私は不思議なほど慌てた。どうしても電話を取れない。電話を取るということは前に進むということだ。それはできない。前に進むことは禁じられている。……だが、一体何に?
 机の引き出しから預金通帳を掴み出した。財布とスマートフォンと音楽プレーヤーを引ったくりバッグに投げた。適当に着替えた服で家から逃げた。音楽プレーヤーを投げ入れたのはここ二ヶ月の死にたがり生活の中でも素晴らしい技と断言できる。
 電車に乗り込む。しかし戸惑う。天使は囁く。お前は馬鹿な真似をしでかそうとしている。今ならまだ人生をやり直せる。そのまま電車の進む方向に任せれば良い。じき学生相談室に辿り着ける。悪魔は述べる。もうどこにも逃げ場は無いのだ。反対方向の電車に乗れ。そして遠い遠い崖から飛び降りて死ね。悪魔に賛成した。罪深い私のために、今も、死を迎えるときも祈ってください。電車を乗り換える。自虐的東京はみるみる離れる。静寂的京都はじりじり近づく。新幹線を予約した。ホテルを予約した。そして小田原に着く。
 新幹線の出発には二時間の余裕があった。クレジットカードはある。だが現金が少ない。引き出しに銀行へ向かう。キャッシュカードを忘れた。馬鹿だ。旅は終わった。めそめそと家に帰ろう。しかしゆうちょ銀行なら通帳だけでも大丈夫だ。残高が思ったより少ない。
 旅は無事に始まった。クレジットカードを主に使うことにした。コンビニで充電器や下着を買った。レジでカードを差し出したときの緊張感。してはならない罪を犯しているかのような罪悪感。コンビニでVISAを使えることも知らずに私は育ってきてしまった。
 行きの新幹線は平日のグリーン席という贅沢極まりないものだった。普通席も自由席も分からず予約した。新幹線に乗るのはこれでやっと三度目だ。雪のため二十五分程度到着が遅れるとのアナウンス。岐阜羽島駅の辺りで降雪に気付く。車窓を撫でる一筋だけの水滴。もはや京都駅に着く以外に道は無い。
 不安と憔悴の京都駅。みぞれの夜の二十一時。この駅はかなり複雑な構造、――とはいえ、例えば新宿駅のような乱雑な構造ではなく――、龍安寺の石庭の構造がモチーフとなっている。設計者の理念は「異なる角度から見たときに一つとして同じ光景が目に映ることの無い構造物の配置」だ。理念通りの入り組んだ光景。しかしチェックイン予定は二十二時である。帰りの新幹線を予約する。足早にヨドバシカメラへ向かう。腕時計を買いたい。腕時計の無い旅なんて考えられない。
 京都弁の店員にポイントカードの作成を勧められる。断る。京都駅に戻る。四条駅までの電車に乗る。ホテルの前払いはカードを使用した。使える。心底安堵する。部屋は何故か二人用だった。大浴場には行かない。コンビニのカレーパンを食べながら明日どこを訪れるか思案する。ユニットバスのシャワーカーテンを閉め忘れてトイレットペーパーがびしょ濡れになる。
 ベッドに入ったのは二十四時頃だった。なかなか寝付くことができない。家族にはどう説明する?カウンセラーには?「突然ですが京都に来ました。心配しないで下さい」?「大丈夫です。一人で帰れます」?情けない。帰りたくない。しかしもう二十二歳なのだ。
 深いまどろみに沈んでいく。ふと目覚め右隣の空のベッドを見つめる。遠い時代に失恋した人がそこで微笑んでいるように感じる。幻想である。もはやあり得ることの無い事実。だがそうした夢は一歩別の道を歩いていればあり得たものかもしれない。夢見は私を安らかな眠りへと救う。一ひらの病的に美しい空想が遠い東京の現実を極端に嫌がりむずかる私をあやしてくれる。愛はいつもある。けれども生きるには愛を感受する能力が必要だ。膝を抱えて孤独に寝た。

 朝が来た。曇天の隙間に薄く陽が差し込む。まず金閣寺に行くことを決めた。かつて小説にも描かれた屹立する金の鳳凰が見たい。それにまだ雪が屋根に残っているかもしれない。
 市バスを使った。全くタイミング良くバスが京都駅のターミナルへ到着した。飛び乗った。途中多くの若者が乗ってきた。大学生に見える。そういえば私も大学生だ。途中駅で彼らは下車した。私は苦も無く金閣寺前で降りた。凍った路面に足を捕られた。
 予想は当たった。雪は多く残っていた。木々の葉群からは明るく澄んだ雪が陽光に暖められて滴り落ち、その均等な韻でしか作られない空間の音響が庭園に仕上がっている。そして白い金閣。池はみぞれに埋まり静まる。雪を被った遠景の山々に風は無い。古風な舞踊のような豊かな幻想だ。純な紫苑だ。失われた倍音だ。本当に京都に来たのだという実感が沸いた。それも一人で来たのだという実感が。
 金閣にしばらく懺悔した。私は旅に出ることを恐れていた。何をすべきか一人で決めなければならないという不安を抱えることを恐れていた。不安を見ることは幸福ではないと決めつけていた。……だが、一体誰によって?
 金閣の出口で一人の老婆がお茶を差し出してくれた。ぬめりがあり、塩っぽい印象が次第に旨味へ変わる温かな昆布茶であった。
 きぬかけの路を歩く。仁和寺へ向かう。竜安寺の前で学生相談室のダイヤルを入力する。立ち止まって電話をする気にはなれない。誤操作のため失敗する。二度目の通話で電話が繋がる。来週は必ずカウンセラーの元へ向かうと受付係に伝える。相手が学生と分かるとため口になるのはこの大学窓口全般の悪癖だ。
 仁和寺の御殿を拝観する。売店では中学時代に購入したお守りが未だに売られていた。御殿入口から最も離れた回廊に「これより霊名殿。静粛に」との立札が掲げられていた。だが英語表記は"Quiet please"だけだ。単なる沈黙を要求するのは無礼だ。霊名殿の暗い立入禁止の内部からは仁和香の濃密な匂いが漂う。あのお守りには光孝天皇の歌が刻まれていたはずだ。

きみがため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ

 思い出に任せて昔の私が辿った道を再び歩もうと思った。きぬかけの路を歩くのは仁和寺で終わりにした。二王門から退出し流れるまま嵐電北野線に乗った。しかし途中駅に広隆寺があることに気付き、迷った末に一二駅広隆寺を過ぎた駅で下車した。思い出さえどうでも良くなっていた。時刻は正午を回っていた。スーパーマーケットでお握りを一つ買った後、広隆寺まで歩くことにした。昼食は広隆寺駅前の京富で吹き寄せうどんとまぐろ丼を食した。うどんには湯葉が入っていた。飾り気の無い素朴な味を楽しんだ。
 広隆寺の参拝は静かだった。様々な仏像があったが、中でも国宝第一号に指定されている宝冠弥勒は特異だった。弥勒菩薩が見下ろす無数の衆生は、鬱屈とした現在と常に対峙している。そしてその思惟の微笑みが、我々の浅はかな思索の底を流れる虚ろな無をいつでも緩和するのだ。浄財箱へ一円玉を四枚投げ入れた。死にたい気持ちが少しでも無くなるように。
 微笑みに酔いつつ嵐電に乗り込み、嵐山へと向かう。京都の地理は全く分からない。嵐「山」なのだから、相当時間がかかるだろうと考えていたが、驚くような短さで到着した。各観光名所が比較的近い距離にあるのは京都随一の魅力である。
 嵐山は家族で来たことがあった。平日にも関わらず人混みは激しかった。大堰川に架かる渡月橋を行き来し山々の写真を撮る。嵐山は地名ではない。本当に山だったのだ。竹林の道へ向かった。橋を何度も振り返った。
 二〇一一年夏の家族写真と同じ竹林を歩いた。二〇一七年の冬。姉は一人暮らしを始めた。妹は太った。母のため息は増えた。父の優しさは空回りしている。私は現実から眼を背けている。踏み荒らされた雪道を人力車が通り過ぎる。道がアスファルト舗装に変わった。厭離庵の手前で引き返す。バスに乗り京都駅に戻った。比較的滑らかに運行していたので、到着が遅れることはなかった。
 京都駅の吹き抜けの屋上は開放感のある素敵な場所だ。大階段を真っ直ぐに登り切り辿り着けるこの屋上からは京都市街が一望できる。京都タワーが控えめに駅の壁面から突き出て、背の低い京の建物のために何も無い青空を彩っている。
 この屋上に辿り着いた時、一種の感動を覚えた。光景を見下ろすという行為は、俯瞰するという意味を与えてくれた。今の私には何もない。隣に誰もいない。待っている人もいない。逃避と不安、後悔が溶け出さずに飽和した脳内で舞う。けれども屋上まで辿り着くことはできた。その小さな力くらいは誇っても良いと思えてきた。二〇一一年の私は何を考えていたのだろうか?
 休みなく歩き回ってきたことに気付く。駅の地下街に入りプレッツェルとホットコーヒーを注文する。大学の通学路にもこの店があったはずだ。数年前の皐月の私がそこでプレッツェルを注文した。梅雨前の柔らかな空気を思い出す。別の私が通学路でレジに並んでいる気がする。
 チェックインは二十二時を予定していた。まだかなり時間に余裕がある。店のコンセントで音楽プレーヤーを充電する。手に入れた京都市街の地図を見返す。大抵の寺社は十七時に閉門する。夜の京都の楽しみを探した。店内は比較的混み合っている。女性の若い店員たちはひっきりなしに商品のおすすめを呼び掛けている。私の後ろの席の女性はノートを開き何かの勉強をしている。
 店を出た。京都タワーの展望台へ向かう。十七時を過ぎた京都の街並みに日没が迫りつつある。
 展望台には多くの人がいた。まだ夕陽は沈まずに残っている。様々な人々がそのタワーに集まっていた。案内人として働く人々、英語を話す人々、韓国語、中国語、日本語、何語かも分からない言語、若者、老人、そして私のせいで私は憂鬱だった。他の人には観光客以外の何かがあるように見えた。それぞれの生活があって、それぞれの帰るべき場所があるのだ。羨ましかった。羨ましくて涙ぐんでしまうほどだった。日が落ちた。大半の空が藍色に染め上がってから、私はタワーを降りた。吐く息の白い残雪の街をもう少し歩いてみることに決めた。行き先は花見小路だった。
 祇園四条駅に到着した。しばらくは道沿いの明るく栄えた四条通の商店街をまっすぐ歩いた。交差点で八坂神社の西楼門に突き当たり、そのまま門をくぐった。一気に寂れた。道端の屋台は棄てられたように片付けられ、灯の無い円山公園に差し掛かると人波は完全に途絶えた。私はそれまでに感じたことの無い感情に襲われ始めた。明日が決して明るんだわけではない。明日が決して見えたわけではない。誰にも居場所を知られることなく、京都の夜をたった一人で三万歩以上歩き続けている。
 そして知恩院道へ歩み出した時、そのような未体験の感情が、大きな喜びの感情だということに気が付いた。その道で美しい景色に触れたわけではない。美しい芸術に触れたわけではない。しかし、知恩院道の消失点へと石の路を只管に歩いたあの時、誰にも分け合うことのできない感動が確かにあった。私はここにいるし、私はこれからどこにだって行くことができる。本気でそう思った。暗夜を照らす足元の灯が歩むたびに過去へ変わる。均等に設けられた次の灯が現在に変わる。その去来する光源を何よりも美しいと感じた。生きて歩もう。灯へ手を伸ばそう。
 知恩院道を出た。遠回りをして花見小路へと入った。想像よりも雑多な町並みが続いたが、四条通の交差点を直進してからは典雅な古都の風景が朗らかに広がった。小路の建物の二階の窓には簾が取り付けられ、通から覗きみるのが難しい。表札に掲げられた見知らぬ芸子の名や、暖簾の奥の奥行きある玄関には、複雑で秘匿された鮮やかな感性が現れていた。
 再び祇園四条駅に戻る途中、懐かしい空間との出会いがあった。壹錢洋食(いっせんようしょく)というお好み焼き屋である。実に八年振りだった。辛うじて覚えていた「壹」という記憶を頼りに、昨夜のホテルで「壹 京都 お好み焼き」と検索し、場所は分かっていた。だが、絶対に寄ろうとまでは思っていなかった。
 店内の装飾をそのまま楽しむよりも、私は自らの薄れた思い出と装飾を交互に見て、積極的にその薄れた思いを生き生きと今ここに持ち出そうとした。ハイボールとお好み焼きを注文し、八年振りにここを訪れたことを店員に述べ、しばし過去と戯れた後に店を出た。きっともう二度とここを訪れることはない。けれども過剰な寂しさを感じることはなかった。適切な静寂というのは必要な感情であって、それ以上でもそれ以下でもいけないものだ。
 次の宿泊先がある伏見駅へ向かった。祇園から伏見に向かうことだけを考えた。見知らぬ場所に感じる不安はいつの間にか消えてしまった。
 伏見駅に着いた。時刻は二十一時だった。伏見稲荷大社へと向かった。大鳥居をくぐり、有名な千本鳥居の入口まで階段を上った。しかし歩き続けたせいで肉体的疲労は重く、道を引き返してホテルに向かうことにした。大鳥居の前では幾人かのアジア系外国人がセルフタイマーを使って写真を撮っていた。JR奈良線伏見駅の前のコンビニで簡単な夕食と明日の朝食を買い、道を急いだ。
 古びた内装のホテルだった。前日のホテルのような広さは無く、一人旅にフィットする室内だった。三階にコインランドリーがあった。下着やシャツを洗濯槽へ投げた。ドラム式洗濯機の蓋と格闘した後、洗濯機はようやく回り出した。傍にあった自動販売機で冷たいコーヒーとトマトジュースを買った。
 その後部屋で夕食を済ませ、洗濯が終わるまで明日の予定をぼんやりと考え、使用済みの参拝券やパンフレットを整理した。券やパンフレットはホテルのフロントで購入した「京都名庭園」という本に挟んで保管した。洗濯物を部屋まで持ち帰り、すぐにベッドに入った。真水が染み込むように睡眠が訪れた。長い空想が現れ、消え、そして太陽は着実に昇った。

 暖房の良く効いた部屋だった。五時四十分に目覚めた。手始めにテレビの電源を入れた。眼に映ったのはNHKの番組で、中原中也の「朝の歌」について語られていた。

朝の歌

天井に 朱きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍樂の憶い
  手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
  諫めする なにものもなし。

樹脂の香に 朝は惱まし
  うしなひし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな

ひろごりて たひらかの空、
  土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

 前日に買ったお握りを食べながら浴槽に湯を溜め、その後狭い湯船に身を浸した。シャワーの温度設定は熱水と冷水を混ぜる物理的作業であったため、調節に慣れるまで時間を要した。
 最終日だった。なるべく早くホテルをチェックアウトしたかった。荷物の整理を行い、部屋を出た。小田原で購入した靴下、下着、シャツはヨドバシカメラの黒いビニール袋に詰めて捨てた。京都市は晴れのち雨の予報だった。
 七時にホテルを出て伏見稲荷大社へと向かった。地上の清潔で澄んだ空気はそのまま遮るもの無く晴天まで届いている。歩きやすいものになることを感じさせた。稲荷山を頂上まで登り、下山してくるには最低でも二時間が必要という話である。他にも美術館や清水寺、銀閣寺などを巡るつもりだった。少し早歩きの登山となった。
 早朝の千本鳥居は冷たい硝子細工の胎内のように静穏として、鳥の声や川の音が良く聴こえた。隙間なく続く朱の鳥居をくぐる最中、すれ違う参拝客と朝の挨拶を交わした。曲がりくねった山道である。しかしどこまでもドミノ倒しのように鳥居が現れるのだ。凍結した石段の寒さに耐える猫に出会った。「猫に餌を与えないで下さい」という看板が示すように、この猫は餌をもらって生活しているのだろう。
 山頂に辿り着く。呼吸を整える。大げさではないが気品のある、頂上に相応しい社が待っていた。頂上から街を眺望することはできない。しかしそれにも増して社の奥にある稲荷神の立派さに心が動いた。左右対称に付置された二体の石像。安定した姿勢により畏怖が象られているけれども、もしも動き出すようなことがあるのならば、神々しさは途端に失われてしまう石像。獣を原型に持つ像は、現実の動と空想の静の両者の関係で張り詰められた美を保つ。人を原型に持つ像は、案外動くようなことがあっても、その神秘さを保つことができる。私は賽銭箱へ四十二円を投げ入れた。死にたい気持ちに正面から向き合えるように。
 下山し、伏見駅へと向かった。道のりでは昼前の参拝客に備えて、焼き物や甘味の屋台が設営作業に移っていた。人々の明るい表情に、太陽が暖め、底冷えから抜け出し始めた京都の空気がそのまま現れていた。前日の夜には気付くことのできなかったいくつかのコーヒーショップではモーニングサービスが行われていて、既に一万歩を歩いた私は休憩を挟みたい気分にもなっていたが、美術館に早く着きたい願望の方が勝った。
 三条京阪駅から国立近代美術館へと歩いた。美術館は一般料金に比べ大学生料金の方が安い。しかし学生証を折り曲げてごみ箱へ捨ててしまっていた。それは前日財布をバッグに投げ入れた直後の出来事である。一般料金で入館した。悪い気はしなかった。陶器の特別企画展が行われていたが、通常展示のみを選んだ。
 平日の早朝、しかも近代美術である。誰もいない美術館は嬉しい。
 刺激的な展示物の中でも、発光ダイオードを用いた宮島達男の作品と、八木一夫の「俳句」と名付けられた五つの小品が印象に残っている。
 漆黒の空間を覗くと、赤と緑の明滅を繰り返す発光ダイオードが地面に設置されている。ダイオードは数十の規模だ。一つのダイオードにつき十数桁のデジタル数字が表示されている。数字は一定のリズムで一~九の数字の流れを繰り返す。しかし隣の数字とは何らの法則性も持っていない。中央の数字が七を指しているからといって、右端の数字が五となる確率は限りなく小さい。それぞれの数字が固有のリズムの循環を持っている。観る人は無意識に相互の数字を関連付ける。けれども関連付けが大きくなればなるほど法則性は失われる。空間全体の数字の秩序は、永遠とも思われる確率でしか回帰することができない。そのような極めて簡素な空間表現は、第一に、剥き出しに暴かれた時間の無機性を直視することを観る人に強いる。けれども第二に、観る人が時間の無機性を優しく撫でて抱くことで、まるでダイオードの配線を庇護するように豊饒な時間の有機性が見る者へ回帰する。人間の生死と不変する世界が、周期する数字の豊かな創造に導かれているのだ。
 八木一夫の「俳句」は黒陶で作られた小板だった。俳句と銘を打っているが、何かしらの歌が刻まれているわけではない。五つの小品は独特な抽象表現により成り立っている。それぞれの小板が持つテーマは異なるが、どれも俳句における力動のあり方を表している。言葉の展開が読む人の心情をどのように作り出すのか。それを図式的に構成しようと試みた作品である。図式を言語的に表現すれば「起承転結」や「序破急」といった言葉が相当する。
力動の感覚は俳句に限らず数多の芸術表現に合致するものだ。俳句が題材に選ばれたのは、俳句が最も簡潔な力動を有する、小さい歯車のように集約されたエネルギーを持つ構造物であるからなのだろう。歯車は、他の芸術ではその数が増減し、またその大小も異なる。けれども抽象的な力動は共通している。クリエイターはそれぞれに共通する極意のようなものを持っているのだ。
 国立近代美術館から銀閣寺行きのバスに乗った。運賃の二百三十円を持ち合わせていないことに気付いた。一つ前の停留所で両替することができた。初めての環境はいつも慣れないものだが、何とかなるものだ。清水寺を回るのは時間の関係上、ここで諦めた。この下車が最後の市バスとなった。
 銀閣寺まで一本道を歩いた。土産屋で焼き八つ橋が二個入った小袋を二つ買う。銀閣寺の門前で一袋食べ終える。朝方からの晴れは続き、境内の木々からは突然に融雪が落ちてきた。銀閣の屋根からは茹だったような霧が絶え間なく昇っていた。
 銀閣寺については思い出すことがそれほど無い。銀閣はその主題に寂しさがあるためか、冬のような景観だと余計な寂しさが目立つ。新緑や紅葉に包まれた銀閣ならば、静寂の主題も生き生きとするのではないか。土産屋でお香と栞を購入した。食べた八つ橋のお礼を一本道の土産屋に述べた後、そのまま哲学の道を歩くことにした。
 小川に沿った、一二人がやっと通れる狭い哲学の道である。正午を回り気温がそれなりに高まった快晴の京都は、さながら小春日和のように穏やかだった。川底には秋に落ち切った紅葉が深く沈み、合鴨や鯉の稚魚、アオサギを見ることもできた。ゲンジボタルの生息地である川の片側は緑で覆われた小山が続く。遥か上方まで透けて見える林にふと日の光が差し込む様は殊の外美しかった。この道に知恩院道のような溌剌とした決意は無い。旅の終わりが近いことを意識し始めた。寂しい安心感があった。この穏やかな時間がいつまでも続いてほしかった。
 再願(さがん)珈琲店で昼食をとった。左のテーブルではフランス人のカップルが食後の談義に華を咲かせている。フランス語特有の引きずるような語調を盗み聞きした。サフランライスのカレーとグリーンサラダを食べ終えると、珈琲とミルクが置かれた。カップルは席を立った。数分後、空席になったテーブルに英語圏の家族が座った。子どもたちは飲み物のメニューを選んでいる。"Ginkakuji"という言葉がしきりに聞こえる。始めの半分をブラックで飲み、もう半分にミルクを入れて珈琲を飲み乾した。入口の扉近くには蓄音機があった。
 再び戻った道の途中に、西田幾多郎の碑を見つけることができた。

人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行なり
 
 自分の道は自分で決めるしかない。道程が空虚に満ち、結末が遠い遠い崖から自殺的に飛び降りるような悲惨の極みであったとしても、とにかく歩むしかない。歩むことが生きることであって、歩みはありのままの私から始まる。歩む楽しみは誰にも奪えない。哲学の道に別れを告げ、大寂門をくぐり、そして南禅寺へと向かった。
 南禅寺の堂々たる三門を見て、以前家族でここに来たことに気付いた。今よりもっと幸福な時代だった。私は意志疎通を諦めなかったし、家族に自由を感じていた。三門は拝観せず、下から写真を撮るにとどめた。
 南禅寺天授庵の拝観はこの旅で巡った庭園の中でも最も鋭い寂寥を感じさせた。南禅寺は境内が広い。観光客は様々な見どころに分散され、天授庵のような拝観料も高く目立たない庭園にはほとんど人が来ない。そのため一人で庭園を独占して楽しむことができた。しんとして波の立たない池は、雪の被った岩や建物を鏡面のように映し出し、水中を覗き込む私の顔と寒さに耐えて動かない鯉を奇妙に被らせる。庭園の奥から入る光が細い竹の乱立に適度に吸収され、曇天のように池は薄暗かった。天授庵を出て、法堂や水路閣を見物し、南禅寺を後にした。
 蹴上駅から三条京阪駅に向かい、京都文化博物館を目指した。道中ではかに道楽の京都本店を見つけた。この光景にも見覚えがあった。家族でこの近くに泊まったのだ。
 十五分ほど商店街を歩き続け、博物館の別館に到着した。別館の外装にもやはり既視感があったが、内装が当時どのようであったのかは思い出せないままだった。今調べたところによれば、二〇一一年にリニューアル工事を行っている。あの頃親しんだ内装とは違っていたのだろう。旧日本銀行京都支店である別館から通路を辿り、本館に入った。
 博物館の総合展示室では一人のボランティアガイドの方が連れ添ってくれた。京都の地層や歴史について熱心なレクチャーを受けた後、お勧めされた四枚の屏風パネルを眺めた。
 それぞれ異なる時代区分のパネルには町人や貴族の生活が入念に描かれている。脇役と思われるような村人や乞食にも、一人ひとり異なった表情がある。喜怒哀楽の感情は当時からあり得たし、誰もが色々な思いを伴って時代を生き抜いた。
 ガイドの一人は中国人の女性に英語で話しかけた。この旅では驚くほどに外国語を耳に挟んだ。日本語より外国語を聴く機会の方が多かったかもしれない。博物館を出る頃には十七時を過ぎていた。京都駅へ戻った。
 京都駅で新幹線の乗り場を確認した後、再び屋上へ向かった。昨日と全く同じ景色が目の前に広がっていた。変わったのは昨夜より固くなった感情だった。もう既に日も暮れて、本当に帰らなければならない。不安を感じないわけではなかった。夕食のために十階の拉麺小路の扉を開けた。
 空中経路の入口に一番近いあらうま堂という拉麺屋で拉麺を頼んだ。夕食にはやや早い時間の店内はがらんとしていた。しかし食べ始めるにつれて複数人の団体客が多く入店し、店内は大いに賑わった。付け合わせのキムチを多く盛り付け、最後にスープと合わせて楽しんだ。
 空中経路から見る京都の夜景は本当に美しかった。京都タワーは赤と青のライトにより発色良く照らされていた。かつて同じ場所、同じ角度、同じ時間から写真に収めたあのタワーそのものだった。タワーは長い年月を経ても立ち続けるだろう。変わったのは撮影者の私だ。良い変化なのかどうかは分からない。しかし確実に分かるのは、もう私はあの頃の私と対峙することができないということだ。天授庵や哲学の道のような、国立近代美術館のような地で産まれる喜びがある一方、心惹かれることが無くなり失っていく夢もある。でも、いつだって自由は創り出すことができる。京都に逃げてきて分かったことはそれだ。助けてくれる人はこれからもきっといる。癒してくれる場所はこれからもきっとある。あの頃よりも自由はずっと深く、時おり目の前に闇のように広がるけれども、踏み出してみることが誰かに禁止されているわけじゃない。何かに禁止されているわけじゃない。いつからだってやり直せる。いつからだって歩いてみても良い。
 最後の京都の夜の帳は、鴨川沿いを散策することにした。予報ではこの時間帯に雨雲が近づき、雨が降るはずであった。夜空には雲一つない闇が広がっていた。京都タワーの方面へと歩き、閉門した三十三間堂を回り、国立京都博物館のある七条通のコンビニで缶ビールを買った。
 ビールを片手に持ちながら歩む対岸の、大小さまざまの古い建物の灯が、浅底の水面に深く差し込んでいる。振り返るたびに京都タワーが小さくなる。清水五条駅を過ぎ、街灯の届かない暗い橋下を抜ける。ランニングを行う人、自転車で帰路を目指す人たちが、疲れて歩幅の小さい私の傍を通り過ぎて行く。それぞれの生活がある。そして私にも生活がある。帰ろうと思った。
 東福寺を経由し再び京都駅に戻った。時刻は既に八時を回っていた。あの屋上をもう一度だけ見たくなった。エスカレーターを一切用いず、大階段を十階まで一息に駆け上がった。息も絶え絶えになりながら眺めた京都の闇は、火照った身体のせいかもしれないが、優しく温かい光に包まれていた。
 新幹線乗り場近くのお土産屋で青いハンカチと生八つ橋を買った。金閣寺で買いそびれた昆布茶はついに見つけることが出来なかった。
 二十時五十三分発のひかり五三八号は動き出した。銀閣寺前で買った最後の焼き八つ橋を口に入れた。ニッキの甘い匂いを感じた。緩やかに目を閉じて、再びのゆめ見を待った。


ひろごりて たひらかの空、
  土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。





【引用文献】
中原中也『中原中也全集 第1巻 詩 Ⅰ』角川書店,1967年,p.26

文章は他の創作物に比べ、古都のようなもので、お金を頂くのはもう粋じゃないのかもしれません。 ただ、あなたのサポートで、私が未来の古都づくりに少しでも参加できるのなら、こんなに嬉しい事はありません。私は文章の住人であり続けたいのです。 あたたかなご支援の程、よろしくお願い致します。