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コウタ(新大久保のための下書き)

コウタは大塚駅のマンション、いや、学生寮まがいの安物件に住んでいる。小石川植物園の近くだ。コウタは第二志望の大学に受かり、酒盛りまがいの吹奏楽サークルの態度に飽き飽きしてクラリネットを止める。すると、いつの間にか自分が大学で一人の友人も持っていないことに気づく。時は秘密に過ぎて、やっぱりクラリネットを…とか思ってみても、近所の騒音問題で吹けやしない。そのうちに湘南での日々が懐かしく思えてくる。一線を越えた加藤さんとの愛も、突然の来訪者であった阿川さんとのロマンスも。

そうやって大学二年生くらいになったある日、今までメールでのやり取りが中心だった阿川さんから、何故か紙の手紙が届く。阿川さんは横浜のとある病院に入院中とのこと。なぜ入院したか?加藤さんが、阿川さんの自殺願望を止めなかったからだ。コウタは当然のことながら怒る。かつての江の島を含む思い出を、身勝手な自殺計画で汚されたと感じたからだ。
加藤さんは逆にコウタをこのように諭す。

「コウタ君はもう、江の島に完全な非現実性を持ち込めるだけの【距離】があるから良いですよね。寝食も東京で、ちょっと気が向いたらこっちに来る。そんな生活が羨ましいですよ。今度、島に来る時は東京から歩いて来てみてはいかがでしょうか。もっとも、こんな事件の後ではそれも嫌かもしれませんがね。私はそんな距離を清めるつもりで、この島近くのラブホテルの清掃人を引き受けたのです。一つ一つの部屋の距離を洗うのです。清掃は治療です。阿川さんも、もう少しで洗い終えられたのに……。」

コウタは電話の繋がったままのスマートフォンを叩き割る。

やさぐれたコウタは新大久保や新宿をアルコール入りで練り歩く。ふらつく足取りの先に寄り添ってきたのは阿川さんより数か月早く先に退院してきたホット・バター。ホット・バターと阿川さんは入院先の病院で仲良くなってしまっていた。ホット・バターは東京で下着の売人をしている。それで生計を立ててさえいる。

安いアルコールを求めさまよううちに、コウタは新宿街の巨大広告によってとあるvtuberの存在を知る。その名前はゴールデン街の酒場で聴いたことのある名であり、特にコウタの行動範囲の中では、家庭ゴミの清掃人たちにとってものすごく有名だった。vtuberの中身の存在は知らないが、その名前は、ムニア。

――そんなに気になるのなら、新大久保の特定の場所に、午前5時に行ってブツを嗅いでみろ、ひどく臭いから――、と、コウタはホット・バターにけしかけられる。だが、コウタが新大久保の現実に嗅いだのは、まるで光と虹の醸し出すフェロモンのような、捉えようのない美しい匂いだけだった。



【例】
ムニアはそうしてウイスキーに入った氷が溶けきるまで、正確には589回、地球の回転のように、くゆらし続けた。脂ぎった指紋付きの高級なガラスコップはいつしか、すりガラスのようにときめくことも忘れて、スケッチされなくなり、ムニア自身も、かつてのようにはコップそのものをじっくりと心に描くよりも、コップの内部に入っている液体に興味を示すようになっていった。人間観察が趣味だという奴らにも似た嫌な癖だ。だからムニアはボクシングよりも相撲のほうが好きだった。自分に似た体格の人ばかりだからというわけではない。相撲にはスポーツの自己矛盾を感じる。ムニアの自己矛盾。そして今目の前は江戸切子のコップ。雀色のウイスキー。ハイパーレッドと名付けられた色の韓国のマニキュア瓶で彼女の激しい鼓動を同期させるようにアルコール瓶を乾杯みたく叩き続けると、切れ込みの連想ゲームとして、なにか夢想曲、フランスの夜想曲が聴こえて来て、それは昼間のコウタの声色だった。

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