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自己肯定しかできない

私の書き物を読んでくれた友達が、こんな感想をコメントしてくれた。

自己肯定が得意そうで好き。自己肯定が強いというより得意って感じがする。

素直にうれしいと感じた(ありがとう)。私は「そんなことないよ」という謙虚な返答は持ち合わせていなかったので、代わりに、反射的にこう答えていた。

自己肯定しかできない

私が書き物をするときのテーマになるのは、いつも、自分や自分を通した何かが多い。

自分自身が考えたこと、感じたことしか書いていない。文章に「自分」や「私は、」という言葉が登場する頻度がおそろしく多い。よく考えずにいろいろ書いて、頭の中身がダダ漏れになった結果が書き物になる。誰かのためになればとか、役に立つ情報かどうかとかは、あまり考えていない。そういうのは、世の中のほかの人が十分に上手くやってくれるので、私が気にすることではないと思っている。私は結局自分の思ったことしか書けない。自分が一番気持ちがいいものを作っている。いつもそうだ。

友達がコメントをくれるまで、自己肯定をしているという意識はなかった。でも、あながち間違いではないと気付いた。私は自分に甘いのかわからないけど、わりと自分のありのままを認めている。認めているというか、あきらめみたいなのがあるのかもしれない。

他人になることは不可能だし、生きてるあいだは生まれ変わることはできない。急にすごいやつになるのは無理そうだし、どんなにがんばってもできないことはある。どれだけでもがんばれるはずなのにがんばれない(あるいはがんばらない)ことも、山ほどある。朝早く起きるのとかいつも下手くそだし、きっと一生できない。そういうのは、あきらめるほかない。

ただ、私は、いつもかっこよくありたいと思っている。昔から、自分が一番かっこいいと思って生きている。周りの誰かと比べてかっこいいかとか、そういう意味ではない(だって私の家族や友達には、かっこいい人がものすごくたくさんいる)。自分の中で、自分が納得いくかっこよさであるか、という意味だ。「かっこいいかどうか」は、生きる上でけっこう大事だと思っている。

自分の「かっこいい」は、自分が決めるものだ。私の「かっこいい」は、頭がいいかとか、容姿が端麗かとか、仕事がめちゃくちゃできるかとか、いっぱいお金を持っているかとか、そういうことではない気がする。言葉にすると興ざめなので、べつに言葉にする気はない。でも、わかる。私の「かっこいい」は、私が決める。

「自己肯定が得意」に見えたのは、そういう理由があるのかもしれない。私は、私の思う「かっこいい」を、世界で一番体現できる人間でありたいし、いつもそうなれるようにがんばる。他の人の「かっこいい」は、他の人が自由にやってくれればいいと思う。自分の「かっこいい」がすべての他人に通じるとも思わないので、私は自分がかっこいいと思えたらそれでいいか、というあきらめみたいなものの中で生きている。

そういうのをギュッと丸めてと固めたものが、あのとき「自己肯定しかできない」という言葉になってぽろっと出てきたのかもしれない。

もっとかっこよくなれるようにがんばります。あなたは?

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