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“推し”は推せるうちに、直接推すのがいい

大人になって“社会”というやつに放り出された途端、褒められることが少なくなった気がするのは私だけ?

子供の頃は、ちょっといい成績をとれば「すごーい、天才だね」、ちょっと面白い発言をすれば「どうしたらそんな面白いことを考えつくの」と褒めてもらえた。私はまあまあ褒められてきた方だし、大事に育てててもらったと思う。

大人になったら、そういうこともだんだん減ってきた。昔よりあまり褒めてもらえない。だって、周りにはもっとすごいのがうじゃうじゃいる。それに何故だか大人って何でもできるのが普通だと思われているので、相当のことじゃないと褒められない。もっとも、みんな他人を褒めてるほど、暇ではなさそうだし。

だから、SNSで簡単に獲得できる「いいね!」の数は、麻薬的だ。もっと「いいね!」が増えないか?もっと私のことを良質なコメントつきでリツイートしてくれないか?とか思いながら、ずっと通知ゼロの画面を眺めてしまう日がある。

私も褒められるのが大好きだったし、今でも好きだけど、いつしか褒められることに対してだんだんと諦めがついてきた。みんなそんなに暇じゃないらしい。

さて、自分が褒められることを期待するのをやめてから、反対に、今度は自分が人を褒めることに勤しむようになった。人を褒めるのは大好きだ。なぜか?なぜなら、褒められるべき人を褒めてあげたいからだ。褒められるべきなのに褒められていない人がいる。これは問題だ。

だが、誰でも彼でも褒めるわけじゃない。悪いけど私だってそんなに暇じゃない。だから、全力で褒めるのは本当に「この人、素晴らしい!私が褒めるべき!」と思った“推し”に限る。

私には、“推し”が何人かいる。どんな人が“推し”になるのかと聞かれれば、その人に対してとても興味があったり、自分にはないものを持っていて尊敬していたり、あるいは理由なんてないけどもうとにかく好きだったり。そういう人たちが“推し”である。

先日、母の日に新しいエプロンを贈った。母の好きなピンクの花柄のエプロン。エプロンが可愛いのは勿論なのだが、エプロンを身につけた母親がものすごく綺麗だった。私は「すごい綺麗」「こんなに似合う人はいないぞ」「これで外に出ても全然良い」と、おそらくたった5分のあいだに30回くらい賛辞を送っていた。口から出まかせではなく、本心だ。本心だから、腹から全部出し切って気管をカラにしないと気が済まないのだ。母は「何を言ってんの」「そんなこと言っても何も出ないよ〜」と、いつものように謙遜しながら笑う。私はくそ真面目な顔をして「いやあ本当に綺麗」と畳み掛けた。

それから数日後、今度はある女性に会った。彼女は書き物も上手いし、言うことも素敵だし、私が勝手に敬愛している人である。私は、自分が素晴らしいと思っている彼女の魅力を、思う存分めちゃくちゃストレートに伝えた(酒の力も借りたが本心だった)。急にそんなことを伝えて、さすがにちょっと引かれたかもしれないと反省したが、彼女は「そんな風に言ってもらえるなんて、嬉しい」とはにかんでいた。

よく、大物のミュージシャンが引退したり世を去ったりするたびに、「“推し”は推せるうちに推しておけ」と叫ばれる。いやあ、本当にそうだと思う。でも、“推し”は案外、大物ミュージシャンでなくともすぐ近くにいたりする。私の場合は、もちろんビヨンセも“推し”なんだけど、ごくごく身近の人間に“推し”がいる。母親も、先の女性も、紛れもない。私の“推し”だ。

せっかく“推し”が近くにいるのなら、推せるうちに、それも直接、もっとしっかり推してあげてもいいんじゃないか?

大人になったら、褒められることは少なくなっていく。だからせめて、自分の好きな人たちだけでも褒めてあげたい。少なくとも私にとっては、褒められることは嬉しいことだから。SNSでもらう「いいね!」よりももっと重みを感じられて、薄く延ばされたリツイートよりもはるかに厚みをもって胸に飛び込んでくる、そんな言葉を直接渡してあげたい。

自分の言葉が果たして本当に彼らに響くかなんて、わからない。空振りかもしれないし、「なんか言ってんな、こいつ」くらいに受け取られるかもしれない。だが、それでもいいやと思う。ときどき放たれる安打が運良く彼らに届くことがあれば、それをわずかな糧にしてくれたらいい。“推し”には、強く強く生きて欲しいのだ。

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