94歳で何を見て何を思う プリンは美味しいかい

施設に入ってるおばあちゃん。コロナ禍ではおかん(おばあちゃんの娘に当たる)でさえ会うこともできなかって、いつからか面会も解禁されているけど、会いにいけてないままやった。(おかんも普段なら、コロナ前なら実家帰った時におばあちゃんに会いに行こかって言うてくるタイプの人やけどいろんな思いがあるのか言ってこなかった、思うことがあるのかもしれん)最近FB(登録してあげて)でストーリーを密かに見られてるから、ここ辿りつかれて見られるとなんかあれやな。。まいっか。

昨日かな、母からラインで写真と共に年齢を94歳と聞かされてびっくりした(なんとなくでしか覚えてなかったから)。おじいちゃんが死んでから(亡くなったの85歳やったかな、おばあちゃんも歳同じぐらいやったはず)おばあちゃんは物忘れが進み、完全に痴呆が進んだ。何十年の当たり前に隣にいた存在が無く(亡く)なってしまったらそりゃそうだ。寂しいよな。寂し過ぎて生きること見失うよな。

それからもう9年とか一人生きてはるんやもんな。いろんなことを忘れて、俺らのこともわからないかもしれない。コロナ前で記憶が危うかったことを覚えている。おじいちゃんのことも覚えているのだろうか。

少し自分側の話をするが一昨年にバンド仲間の後輩が30前半(早すぎる)で亡くなった、去年は年の近い先輩が亡くなった。生きていくことは、いたい。じわじわ、チクチク、いたい。基本順番にいなくなるのにたまにとばかして、いなくなっていく。そして一番音楽的に影響を受けたチバユウスケは55でいなくなった。みんな別れていくために出会ったわけではないのに、最後にみんな別れて終わる。みんな別れるために生きてるのか。

それらのことが、ここ数年で自分の生や、老いていくに対して考え方がなん度も反転してる。よくわからんくなっている。その反面、生か死にに興味を持っている。

おばあちゃんは何が見えてて、何を思うんやろう。おばあちゃんは少しふくよかで、メガネをずっとかけてて、髪もクリンとパーマがかかってたイメージ。今は危ないから、メガネもしていなく、シュッと細くなり(マイナスイメージでなく、ボーイッシュでちょっとかっこいいと思ってしまった、いいじゃん)髪も最近がっつり切ったらしく、ショートになってた。

メガネしていないってことは基本も見えてないまま、過ごしているのかな。面会の時のおかんの顔とか、おかんが口元に運ぶプリンの肌色とかカラメルの茶色とか。

94歳まで生きてて、すごい素晴らしいなと思う。もちろん全てを忘れてるわけでないから、断片的には記憶があるんやろうけど、どこまで何を覚えているんやろな。俺はその歳まで生きれるんだろうか、生きて何を思うやろか、何を覚えているのか、ひとりで自分のことをどこまでできるんやろか、歌は歌える?絵は描ける?
やはり老いていくことにはネガティブしか、今は感じない。

できないことが増えていきながら、過ごす毎日、おばあちゃんはそういう日々を俺らの前では常に笑顔で過ごしてきたんやろな。ずっと笑ってるおばあちゃんやったな、おじいちゃんは英語の先生で厳しさもあったけど、笑。

おばあちゃんに長い間会ってなかったな、、、今度実家帰ったら会いに行こう。記憶の断片に俺少ししがみつけてたらうれしいかもな、覚えてるかな、でも覚えてなくてもいいか。今の暮らし、日々のこと聞いてみよう。今ずっと感じてる、生や老いへのネガティブな感覚、少し和らぐかな。

前も書いたが20代が体力のピークて神さんがいるのなら、人の設計間違ってるやろ、ピーク序盤に持ってきすぎやで。それか人が長く生きすぎなんやろか。




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