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自分の意見とは反対の立場でディベートすると自由な発想に一歩近づくんじゃないか、と思った話

「ディスカッション」という言葉は一般的には比較的よく聞く言葉ではないかな、と思います。少なくともディベートという言葉よりは。
就活の「グループディスカッション」だったり、ビジネスの現場で「ちょっとディスカッションしましょう」(←ん?今はブレストの方が多い?)だったり。
ただ、「ディスカッション」の前に「ディベート」を経験しておくことって、実はめちゃ大事じゃない?と思うことをちょっと書きます。

ディスカッションとディベート

そもそもディスカッションとディベートって何が違うかというと、
ディスカッションはあるテーマに対して自由に意見を述べていく、正解とか間違いがないもの。
ディベートは賛成/反対と分かれて意見を闘わせるもの、です。

ただ、厳密にはあまり区別されていないみたいで、ひとまとめに「討論」として括られているらしいです。

ひとまずここでは、上記の意味で話を進めます。

大学1年のときにビックリしたディベートの授業

私は大学で法学専攻だったのですが、まだ法律のほの字も学んでいない必修科目の法学基礎の中で「ディベート」というものがありました。
この時の「ディベート」がなかなか変わったもので、テーマに対する本人たちの「賛成」「反対」の意見はそっちのけで、先生が勝手に「賛成」「反対」「ジャッジメント」とグルーピングして行うというものでした。

当時の私は「自主性重んじないのかよ!」とか引いてしまってました。「まずは本人たちの意見尊重とかじゃなくて…?」と。
その時テーマにあげられていたのが色々あったんですが、「同性婚を認めるかどうか」「代理母出産を認めるかどうか」というような社会問題についてでした。

で、私の立場は

同性婚=賛成

代理母出産=反対

だったんですが、見事に先生の采配で反対のグループになりました。「うそぉ…」と愕然としたのは言う間でもなく。

ただ、「どのチームが説得性のあるディベートを行い、ジャッジメントに意見を採用してもらえるか」という一種のゲーム形式だったので、自分の意見と反対でも自分のチームの意見をジャッジメントに選んでもらわなければいけません。
かーなーり、当時のチームのメンバーで悩んで色々と相談しました。

まず、自分の意見と正反対なので、想像ができないのです。想像できないと意見も言えない。
そうすると、自然に「なぜこの意見の立場の人たちはこの意見を言うのか?」「どういった意見を出しているのか?」を調べる必要が出てきます。かつ、このテーマについての論点も把握する必要が出てきます。何が論点になっていて、それらにどう説得力を持って反論しなければならないのか、そしてディベートの相手方がするであろう反論に対してもどう応じる必要があるのか。これらを嫌でも考える必要が出てきます。「私は賛成/反対です」だけでは全く説得力はないのですから…

しかし、面白いことに、自分とは反対の意見の立場にたったことで主観性が嫌でも取り除かれます。
そうすると、自分とは正反対相手の立場と自分の本来の意見の立場とを両方とも考えることになります。
自分の意見だけでいると「これが正解だ!」みたいに視野が狭くなりますが、この場合はそんなわけにはいきません。客観的にならないと「説得力」を持ったものにできないのです。

同性婚を反対という人たちはなぜ反対なのか

代理母出産を賛成という人たちはなぜ賛成なのか

「なぜ」を突き詰めて考えていくことになります。そうすると、いかに自分が狭い世界観で物事を考えて決めつけていたのかを痛感しました。
「え、私、全然客観性なんて持ってないじゃん、独りよがりで思いこみで決めつけてしまってない?」と。

この「自分の意見と反対の立場で説得力のある話をしなければならない」という状況が、私に与えてくれた気づきというのものは、20歳に満たない私には大きな衝撃でした。

「自分とは違う」意見を知ることが、柔軟な発想に繋がる

私はゆとり世代ど真ん中なのですが、私の時代の教育では「自主性」「個性を重んじる」というキーワードがよく聞かれました。

子どもはのびのびと育つのが一番だ、自由な環境下でこそ、多様な考え方が生まれるのだ、と。

でも、「何もない状態」から自由な発想なんて生まれないよね、と私は考えています。上記の大学時代の経験もそうですし、同年代で「自主性大切!
!」とか言って「学ぶ」「知る」を怠ったの多くは「偏った意見で相手の意見を受容しない」姿勢が年々顕著になっているような気もします。

こんな面白い記事がありました。「若手よりも年配者のほうが発想が自由だった?」というもの。

「管理職向けに研修をしたところ、中堅、若手になればなるほど、今の組織の枠組みの中でしか発想をすることが出来なかった」というのですから面白い結果です。これを読んだ時、改めて思ったことは「無から有は生まれない」ということ。

自分の意見を持つ、発送するということは「自分で考える」ということが大前提です。
この「自分で考える」とは、自分が今持っている「枠組み」の中でしか行うことができません。この「枠組み」は「知ること」「学ぶこと」でしか広げることができない。枠組みが小さければ小さいほど、「自由な発想」「柔軟な発想」からは程遠くなります。
「枠組みを外す」にしても、その「枠組み」自体が成長していなければ、その人の考え・価値観はとても小さなものとなってしまいます。

「自分とは違う」意見、何なら「自分と正反対」の意見を知ることが、「枠組み」を大きくするにはとても効果的なのです。

自分と正反対の意見でディベートする経験を若い内から

こんな話をしている私ですが、まだまだ多様性も柔軟性も程遠い、狭い世界観の持ち主です。
ですが、大学時代に「ディベート」というものを経験したことで、人に言われるよりも自分の身をもって「異なる立場」を知ることができ、いかに自分の世界観が狭かったかを気づくことができました。

この経験や上記の記事からも思うことは、野放しでは自由な発想や闊達な意見など生まれないということ。
自分の意見で議論するディスカッションももちろん大事なのですが、その前に、「自分の意見とは正反対の立場」で「ディベート」をすると、より多くの気づきと自分の枠組みを知る貴重な機会になり得ます。

特に高校生や大学生といった、ある程度のことを自分で判断できる、でも枠組みがまだ成長段階のような時期には、実は効果的なんじゃないか、と思うのです。

ゆくゆく社会人になった時、「顧客の立場」「取引先の立場」などの自身と違う立ち位置の人について考える基礎にもなり得ますし、「説得性」という意味ではビジネススキルの根幹であるロジカルシンキングに繋がる要素です。

また、ディベートの面白いのは「ジャッジメント」という第三者の立ち位置も経験できることだなと思っています。当事者ではない第三者としてみた場合にどう見えるのか、そしてそれらの意見をどのように判断し、どちらを選ぶのか、という経験は意思決定にも繋がるものです。(どっちの意見も採用しないよ、というのは基本無し)

いかにも「法学」っぽい題材での議論方法でしたが、私は思い返してみても、この経験は気づきの多かったものだなと、当時の先生に感謝しかないです。

もし、「ディベートしたくても複数人で集まってやることなんかできないよ」という場合には、ニュースで報じる社会問題に対して、ご自身なりに「賛成」「反対」「ジャッジメント」の立場を想像してみるのもひとつの手です。

必ず3つの立場と決まっているのですから区分けしやすいので一人でも充分に考える練習になります。

良かったら、明日からでも「ご自身と反対の立場でディベートした場合」を気になるテーマから考えてみてはいかがでしょうか?


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