旧民主党と若いエリートの共犯関係:誰が政治を壊したか

※この記事は、2020年の2月にほとんど書いたうえで放置していたものであり、COVID-19の感染拡大に伴う社会変化には言及できていないことをご了承ください。

立憲民主党の議員のTweetが大炎上

2/6-7という短い期間に、立憲民主党を代表する議員のtweetが大炎上。以下が、発端のtweetです。

よりによって、おんなじ様なテーマで炎上するものです。

若いエリートと「企業活動的自己」

  蓮舫のは、入試改革を含む高大接続教育改革について話し合うイベントで、よりによって、この間に批判のあったAO入試とポートフォリオ(≒調査書)の利用拡大が、解決策として出されてしまうという話でした。

 このイベントについては以下にまとめた通りで、まさかそのままやるとは思いませんでした。(批判の多かったAO義塾は外れましたが)

 今回、蓮舫のtweetだけで、45人の高校生の募集があったと考えるのは、あまりにも不自然なので、PoliPoliとAO義塾(というかRe:Vision)の過去のイベントの参加者にメーリングリスト等で募集した結果かなと推測します。参加した高校生を被害者と見る向きもありますが、むしろ、身内であり、利益関係者じゃないかな。そう考えるとまるで、医師会とか農協とかの業界団体のイベントに蓮舫があいさつした時の発信のようですね。

 AO義塾の創業者の斎木洋平に代表されるような「意識の高い若いエリート」がどういう背景で出てきたのか、もっと理解が広まった方がいいのかなと思います。使い古された言葉で言うなら「新自由主義」ということになるのでしょうが、単純に民営化が進むということだけではなくて、個人や行政が「企業化」してゆき、競争が余儀なくされていく社会と広げて解釈する必要があるでしょう。ちょうど、渋谷望の論文内のフーコーの企業社会論の要約がわかりやすかったので引用します。

フーコーのいう「企業社会」は,大企業が個人を支配するような社会 ーしばしば戦後日本がそうだったとみなされるようなーを意味するわけではない.そうではなく,それは個人が企業になる社会である.それは個人や家族が経済的に独立した単位,すなわちミクロな「企業」として自らをコード化し,互いに競争的にふるまう社会である.そうした主体は企業に属すのではなく,自らが企業になる「企業活動的自己(enterprising self)」であり,生きることが企業活動として把握される(Miller and Rose2008; McNay 2009).

渋谷 望(2011)「アントレプレナーと被災者:ネオリベラリズムの権力と心理学的主体」『社会学評論』 61(4), 455-472

 まさにAO入試の人間像と言えるでしょう。ここで一つ振り返ってみたいことがあります。1998年に特定非営利活動法人法ができるわけですが、「市民活動」という言葉は左派系の政治背景を嗅ぎ取る保守系政治家によって忌避され「特定非営利活動」という言葉が生まれました。政治活動(特定政党の為の活動を指す)を禁じる条項も盛り込まれました。社会運動の脱政治化(脱党派化)の一歩と見てよいでしょう。

 「非営利」とは株式会社の配当金のようにはオーナーに利益を分配しないという意味であり、2000年代に入ると、利益を上げることは禁じられていないということで、市場で問題を解決するという企業型NPOがもてはやされました。そしてその流れは今まで続きます。「意識の高い若いエリート」はこういう時代背景で生まれてきました。

 こういう「意識の高い若いエリート」は彼らだけではなくたくさんいます。そして、今後、年齢を重ねるごとに社会の中枢を担っていきます。彼らは問題、主には少子高齢化、の解決のツールとしてしか政治を見ていないので、政治の正統性が毀損されようが関係ありません。コストパフォーマンス、政策の効果測定さえできれば、「書類上」に不備がなければOKなんです。書類が改ざんされたとしても。経営者の企業不正で内部統制システムや監査法人の監査で見つかることが皆無のように。

 これから彼らの時代がきます。世の中の中枢を担っていきます。なので、野党支持者の皆さんは彼ら(というか私と同世代)が引退するまで政権交代を諦めてください。むしろ、50年かけて、この世代の体制を打ち破るような民主文化を育てていきましょう。

※関連することは以下の記事でも書いています。

「意識の高い若者」たちを育てた民主党政治

 彼らが、というか私が育ってきた30年あまりの時間というのは、まさに政治改革の30年であり、民主党による政権交代に向けての30年でした。「右でもなく左でもなく前へ」というフレーズを愛用される元民主党の政治家がいらっしゃいますが、イデオロギー対立もしくは、対決型の政治を古いものだとする価値観が充満する中で育ち、私も旧民主党を物心がついた時から支持していました。蓮舫もそういう文脈で政治家になったことでしょう。そして、菅直人は2008年にこう書いています。

もともと私たちがめざしていた市民運動というのは政策論でした。なにかに反対する、という市民運動じゃあなくて、ポジティブに問題を提言してゆこうという政策提言運動です。

 今、学費問題であり入試改革の問題であり、高校生や大学生が声を挙げ運動している姿を菅直人が見つけられなくても無理はないのかもしれません。そういうものに対して背を向けてきたのですから。経歴からすれば党内では菅直人はまだましの方で、社会運動に触れたこともない、理解することが困難な議員は多くいるのでしょう。

 立憲民主党の議員の発言ばかり挙げましたが、国民民主党の玉木代表もPoliPoliを愛用し、世代間対立を煽り社会保障を棄損するような主張をされております。立憲民主党が悪い、国民民主党が悪いという問題ではなく旧民主党系に共通する問題だと認識していただきたいと思います。

 それにしても、昔批判された業界団体のようにロビーイングしているのはなんだか皮肉ですね。

都市のエリートの問題なのか

 今回の話を都市の豊かなエリート達が、自らの利益を追い求めた結果の事象という認識が一部であるようです。つまり、金持ちは金持ちの立場で利益を追求し、貧乏人は貧乏人の立場で利益を追求する。通俗的な唯物論的認識は、この話題に限らず見受けられますが本当でしょうか。

 今回の入試改革の問題は以前から取り上げられていましたが、注目を浴びたのは慶應義塾大学文学部の英文科の学生が、演説中の柴山文部科学大臣に改革の中止を求めるプラカードを持って接近しようとしたところ、公安警察に暴力的に排除された事件がきっかけでした。その大都市は、名古屋市という大都市で一番優秀だとされる私立高校の出身でした。

 改革の中止を求める文部科学省前の抗議活動で、メディアに顔出しで発言していた高校生たちがいました。ファーストペンギンと呼ばれる彼らは、東京のトップクラスと目される高校の出身でした。彼ら自身は、必ずしもこの改革の被害者ではないかもしれません。自身の学力で、どんなおかしい入試でも対応していくことが可能でしょう。むしろ、地域格差が拡大することで利益があるかもしれない。ではなぜ立ち上がったのか。

 入試改革の推進派からは、効率性の為ならば公共性が毀損されてもかまわないといった趣旨の発言もありました。ファーストペンギンと呼ばれた彼らは、自身のみならず日本中の高校生と日本の高等教育・中等教育の今後のために、まさしく、公共性のために立ち上がった訳です。彼らは、日本のあちこちから寄せられた署名、船が遅れて離島から届かなかった分も含めて代弁しました。

解決できなくてもそばにいること

 ファーストペンギンと呼ばれた高校生の一人がこのイベントについてこのように発言しています。

 若いエリートの中で、入試改革反対運動に加わった人達とPoliPoliのようなAO入試の拡大を盛り込もうとした人達の立脚している地点の違いを明確にした一言だと思います。

 入試改革反対運動は「公共性」を問う営みとしての政治運動を展開してきたのではないか、ということができると思います。高校生たち含め、三つの意味での「公共性」を背負っていたのではないか、と。

 一つ目は、人間社会が歴史的に積み上げた共有物としての学術知としての言語学や教育学の擁護という意味での公共性です。この一つ目が学問の自由という自由権的な側面を帯びているのに対して、二つ目は経済環境や住んでいる場所に関わらず学ぶことのできる学習権の擁護という意味での公共性です。そして、三つ目は政治運動そのものとしての公共性です。問題解決の手段としては遠回りであったとしても、様々な世代・バックグラウンドの人が加わる、署名を書くレベルから、文科省の前でスピーチをするレベルまで様々な加わり方で。学びの先達たる専門家もまた人間の英知を背負って参加した訳です。

 他方、AO産業や政治参加業界の人達は、政治参加を拡大する立場であると自己定義しながら、むしろ政治の公共性を切り崩すような経済の論理を引っ提げて野党第一党に接近した訳です。彼らにとっては、学問知は問題を解決するのに役に立つ道具にすぎず、それ自身には価値はなく、つまみ食いすればよい存在です。であるがゆえに、専門家そのものは必要ではありません。入試改革反対運動に加わった人達は専門家の声を聞けと唱えましたが、AO産業や政治参加業界の人達にとって知識は道具にすぎないものなので、専門家そのものは必要ありません。

 問題解決型思考という言葉が、この30年近くとらえられてきました。社会科系の総合学習が好きだった私は子供のころからこの価値観に好意的で、慣れ親しんできました。本当に愚かなことだったと思います。問題解決型思考においては、現時点において解決方法のない事柄は後回しにされ、むしろ、解決策が先にあり、それに当てはまりそうな事案が探されるというのが実態ではないでしょうか。当てはまらなくても強引に当てはめていく、そんなことの象徴が、この入試改革を巡る問題だったと思います。政治参加業界やAO業界の方々は問題解決能力に優れていた、と。
 例の改革がストップしたとしても、大学と入試と学生/生徒を巡る根本的な問題は解決するわけではありません。所得格差・地域格差・教育と進路・研究の自由・大学自治、、、これらの問題が解決した理想の世界のイメージはあっても、そこに行き着くまでのプロセスは明確なものではないかと思います。私達は解決案を提示することはできないとしても、問題とともにあり続けることはできるのではないでしょうか。
 医師ではない私たちが、病める家族の看病を続けるように。


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