反「市民」の運動論-こたつぬこ(木下ちがや)の『「社会を変えよう」といわれたら』を読む

  twitterでは、こたつぬこというアカウント名で知られ、3.11以後の国会前における社会運動シーンにおいて奮闘した、新進気鋭の社会学者で民医連の事務員でもある木下ちがや氏の『「社会を変えよう」といわれたら』を遅ればせながら読みました。

 最初、読んだときは、社会運動本にありがちな人々の語りに基づいた濃厚かつ克明な記述は乏しく、肩透かしを食らったような気がしました。一般的に社会運動の本はどうしても分厚くなりがちです。
 しかし、この本に筆者が何を描いたのかではなくて、何を描かなかったのかについて注目して読み進めていくで、彼の強力な情念のこめられたメッセージを受け取ることができてしまいました。

 結論を先に言うならば、2011年以降の社会運動のシーンにおいて、アジア太平洋戦争後の「市民運動」の影響をなきものにしたい、それによって3.11以降の社会運動の新奇性を強調するとともに、市民と野党の共闘を正統化したい、というのがこの本にこめられたメッセージではないかと感じます。

描かれない「市民運動」

 筆者はこの本の中で社会運動を想起します。その章を、農業協同組合新聞の以下のようなコラムの引用ではじめます。

 「各県での集会には、生協や労働界や地方財界までも名をつらね、オール北海道とか、オール〇〇とかいわれ、県ぐるみの、現場の反対組織を作り、反対運動を広げた。
 それを全中が全国規模でまとめ上げ、国会に対する強力な要請運動を展開した。だから、未だにTPPは発効していない。つまり、農協が国会の少数派である野党を巻き込んで、TPPを成立させなかったのである。
 この経験から、労働法制改悪に反対する運動は、何を学ぶのか。
(略)
 野党が、本気になってこの法制案を廃棄したいのなら、現場の労働者や現場の労組に対して問題を提起し、現場での反対運動を組織しなければならない。
 そうした各地の反対の声を国会に結集し、政府与党を追い詰めなければならない。非組織的な市民運動だけに頼っていたのでは、強力な反対運動にならないだろう。」
森島賢「労働法制改悪の現場集会を」「コラム:正義派の農政論」『農業協同組合新聞』電子版2018.2.16
木下 p.61-62
※なお評者が一部抜粋

 筆者はこの引用を持って都市では社会運動は衰退していったのに対し、農山漁村においては、今も自信をもって行われていると印象付けます。この章では、この後「市民」と「市民運動」という言葉は二度と出てきません。市民運動とは日本の社会運動の文脈において、政党・労組・学生運動に所属しない人々の自主的な参加に基づく運動をさしてきました。この定義をしたのが、市民運動の政治学者の一人、高畠通敏であり、対義語たる政党・労組に紐づいた運動のことを「革新国民運動」と呼び区別しました。

 市民運動の歴史を振り返るならば、1958年の警職法改正反対運動には、政党・労組に動員された人ばかりでなく、多くのそれ以外の人々が参加したことにはじまるかもしれません。60年安保においては、岸信介のサイレントマジョリティは支持していると言わんばかりの声なき声発言に反発する形でできた「声なき声の会」が多くの安保改正に反対する人々の参加を巻き込みました。そして、ベトナム戦争がはじまると「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の勝手連的な組織が全国に立ち上げられ、様々な抗議活動や良心的脱走兵の脱走の支援に代表されるような活動が展開されました。

「「市民とはだれか」ときかれたら、この運動参加者はどう答えただろうか。おそらく大かたの回答は「自発的に行動を選びとっていく個人」「責任をもって自発的に参加する私」というものだったにちがいない。誰かに言われたからやるのではなく、自分で判断し、自発的に行動を選びとっていく。誰でも入れる開かれた集団をスローガンにかかげるベ平連にとって、市民の定義はそれで十分だった。①言い出した人間がする、②人のやることに、とやかく文句を言わない(そんな暇があったら自分で何とかしろ)、③好きなことは何でもやれ――がベ平連運動の三原則であったし、また、ベ平連は二人集まればそう名乗ることができたのだから」
天野正子、1996『「生活者」とはだれか――自律的市民の系譜』中公新書P.174
以下を参照
「ベ平連」『福祉と公共政策』種村剛ウェブサイト

 「自分で判断し、自発的に行動を選びとっていく」「誰でも入れる開かれた集団」というあり方は、共有経験としてイラク反戦や安保法制反対運動まで継承されたものであったと思います。

 もう一つ市民運動に起源があります。1960年代、日本社会党の構造改革派のイデオローグであった松下圭一の影響を受ける形で、日本社会党と日本共産党の共闘で生まれた革新自治体では、住民の直接参加が進められていきます。このことが、自律的な「市民」として地域の問題に取り組もうとする市民運動の萌芽を撒くことになります。

「松下圭一」『人名』種村剛ウェブサイト

  日本において「市民運動」と呼ばれてきたものは、フランスの社会学者トゥレーヌが新しい社会運動と呼んだものと重なることでもあります。

「新しい社会運動(new social movement)」『福祉と公共政策』種村剛ウェブサイト

 ここまで、つらつらと社会運動史において通史とされてきたような日本の特に都市においての市民運動の歴史を書いてきたわけですが、上記のような記載は筆者の本には一切ありません。60年安保においては労組と商店の大規模なストライキ、70年安保は学生運動とセクト主義の迷走といった内容で市民運動につながる内容はありません。ベトナム反戦については一言たりとも触れられません。小田実は文中に登場しますが、9条の会の人物としてであって、ベ平連のメンバーとしてではありません。たぶん、日本の社会運動史を振り返った文章においてベ平連が出てこなかったのはかつてないのではないかな、と思います。
 そして、70年代の革新自治体については、なぜか勤労者音楽協議会(労音)が、運動の代表例として現れるわけです。労音はもっと早い時代から活動しており会員数のピークは60年代に迎えていたはずであり、70年代以降も活動を継続していますが、この時代を象徴する活動かと言われると疑問が残ります。加えて、団地にも注目されていますが、革新自治体は西武沿線や横浜市のような大規模団地がある場所だけで起こった訳ではないことにも留意が必要です。

 80年代の主婦たちの運動については、以下のように結論付けられています。
「この一九八〇年代には、社会の多数派の動く政治変革につながるような社会運動が起こることはありませんでした」(102)
 松下圭一の市民自治論の全盛期であるため、全国的な抗議活動よりも地域による提案型の運動がそもそももてはやされたという時代背景もあるのですが、それはともかく、社会の多数派に影響を与えたかという成果で社会運動をはかろうという姿勢は妥当なのでしょうか。脱原発や安保法制反対のデモがあっても原発も安保法制もなくなっていないと嗤う冷笑家と同じだと思います。

反「市民」の運動論を構築するためには

 この本が、小熊英二の影響を受けて書かれていることは参考文献を見ても明白であり、小熊が評価した「ベ平連」が出てこないのは、筆者が知らなかったからではなく、筆者の理論を構成する要素として存在しなかったからなのでしょう。ならば、市民運動を描かないということによって、反「市民」の運動論を構築しようとしているのではないか、と推測します。(他の社会運動研究を参照せず批判の多い小熊のみを頼るのもどうかと思いますが、、、)。
 また、筆者はこの本にも書かれている通り民医連の事務員であり、高畠の言うところの「革新国民運動」の側の人間です。その立場からして、「市民運動」を否定的に評価しているというのも想像に難くないことではあります。

 しかしながら、歴史的考察から市民運動の歴史を無視するという戦術は、筆者の研究にとって誤りであると私は考えています。筆者の著作を批判するような書評を書いている私ですが、市民運動の歴史は無謬だとは考えていません。3.11以降の社会運動に市民運動が影響を与えている以上、もし問題があるならば、その問題を批判することこそが、次の時代の運動を豊かにすることにつながるのではないでしょうか。

以前、社会運動の政治性を漂白せんとする日本コミュニティオーガナイジング協会の鎌田氏の社会運動史の語りを批判した訳ですが、市民運動の歴史を語らないという点では、立場を超えて奇妙な一致をしていると思います。ある意味、時代がワープする「ワープ史観」とでも呼ぶべきものかな、と考えています。

 ワープ史観ではなくて、市民運動の歴史をあえて描き批判を加えていくことこそ、反「市民」の運動論を展開し、今後の社会運動をリードすることになるかと思います。そのような著作を出されることを、心待ちにして、この書評を終えたいと思います。

P.S. 70年代以降に特筆するべき市民運動がないとするならば、生活クラブ生協の運動や、菅直人の市民選挙は何だったんだよう!!という話です。生活クラブ生協の代理人運動である東京生活者ネットワークから市長が生まれたり、6人の都議を輩出したりというのは90年代の話ですし、70年代以降を「社会運動の冬の時代」として描くのには、少し懐疑的です。


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