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生きることは悪である

どうしても拭いきれない死への恐怖。

それは、死んだら自分はどうなるのかという未知への恐怖。

それは、この世で縁を結んだ一切と永遠に別れ、二度と出逢うことのない別離の恐怖。

死ぬのが怖いなどと言いながら、自分はこれまでどれだけの命を貪ってきたのか。そして、これからも貪り続けるつもりなのか。

生きることは食べること。肉、魚、野菜、果物。動物にも植物にも命は宿っている。命を食わねば生きられぬ。

命を食うことが、自らの手でその命を奪うことの延長線上にないというだけで、その罪から逃れられるわけもない。

毎日毎日命を喰っては、自分の命をせっせと繋いでゆく。戴いた命に「今日も私の命を繋ぎとめてくれてありがとう」と感謝することなど皆無だ。

それどころか、あの店のステーキは柔らかくて肉汁が溢れだす絶品だとか、あそこの寿司は鮮度抜群で舌がとろけそうだとか。言っている自分が恥ずかしくなってくる。

ならばせめて、自分がそんな殺生を繰り返すことでしか生きられない、どうしようもない「悪」であることを自覚するしかない。「自己と向き合う」とは、自分自身のそんな姿を見つめることから始めることなのかも知れない。

カゲロウの成虫は口も消化器官も退化し、何も食べることなく一生を終えるという。これは、吉野弘氏の「I was born」という散文詩で知った事実である。

癌の闘病の末、他界した父は、最期は多臓器不全で食べ物も食べられず(食べても消化することができないため)、死ぬまでの3週間ほどはほぼ絶食状態だった。

私の記憶では、父が最後に口にした食べ物はインスタントのワンタンスープだったと思う。それを一口食べて「今までこんなに塩分の高いものを平気で食べていたのか……。」と言った。なぜかその言葉が今も心に残っている。

父は人生の最期にカゲロウになったのかも知れない……。殺生の世界でしか生きられない人間から、最後に少しだけ崇高な存在に。そんなことを思いながら、生きることの意味について考えたりしている夜。


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