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東野たまと申します

 誰に頼まれたわけでもないのに毎年、季節との約束をきちんと果たす花たち。梅の花、はらりと散れば桜舞い、新緑萌えて藤の花房。古都、京都に吹く風も少しずつ暖かくなってきた今日この頃です。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

 はじめまして、東野たまと申します。四季折々、咲いては散ってゆく花たちの美しくひたむきな姿を目にすると、いつも小さな勇気をもらえるような気がいたします。私は先月の終わり頃、初めてnoteに参加させていただきました。早いもので、それから一か月ほど経ちましたので、少しばかり私なりに雑感を綴ってみたいと思います。

 私のnoteをご覧いただいた方はすでにご存じかと思いますが、私はnoteで自作の詩(と時々音楽)を投稿しております。慌ただしく過ぎてゆく毎日の中、ふと思ったことや感じたことを私なりの言葉にしてみたいと思い、詩を書き始めました。

 実は、私は昔から詩を読むことが好きだったわけではありません。それどころかちょっと前までは、正直、詩というものが何なのか全く知りませんでした。小中学校の授業などで詩に触れる機会はありましたが、さして何かが心に響いたというわけでもなく、その後も詩に触れることなく人生を過ごしてきました。

 ところが2019年秋、落葉樹の葉がほのかに赤みを帯び始め、風が少し冷たくなってきた頃だったと思います。茨木のり子さんの「さくら」という詩に出逢い、私は大きな衝撃を受けました。毎年、春になれば当たり前のように咲く桜の花。私は今まで、桜を見ても「奇麗だなあ」くらいにしか感じたことがありませんでした。しかし、茨木のり子さんは散りゆく桜の姿に人間の命の儚さ、それゆえの愛おしさを見出すのです。そこからさらに彼女独特の「生死観」にまで想像を飛躍させ、丁寧に紡ぎだされた言葉によって一篇の詩に結晶させるのです。

 私はこの詩を何度も何度も読み返しました。読むたびに、彼女の心のひだに触れるような思いがしました。そして、その豊かな感受性と物事の姿を深く見つめる視点に、ただただ感動しました。それ以来、色々な詩人の詩を読むようになり、宝石のように輝くそれら一つひとつの詩をじっくりと味わうことが、私の何よりの楽しみとなっていったのです。そんな中、私もいつか自分の言葉で、自分の詩を書いてみたいと思うようになりました。

 

 我々が普段何気なく使っている「言葉」というものは、本当に不思議なものだと思います。地球で暮らす人間以外の生物は言葉を持っておりません。しかし、動物も植物も、微生物に至るまで自分たちの生き方、存続の仕方、地球とのかかわり方を、言葉は知らずとも間違いなく「知っている」のだと思います。

 我々人類は脳の発達により言葉を獲得しました。言葉を得たことで我々は思考し、物事を抽象化、概念化するという能力を身に着けました。その能力は人間の「想像力」を格段に飛躍させ、豊かで複雑な文明社会を築いてきました。

 一方で、コミュニケーションの道具としての言葉というものを考えたとき、それはどうしても不完全なものなのではないかという気がいたします。皆さんも「口で何度説明しても伝わらない」という経験をされたことがあるのではないでしょうか。我々が何かを「知っている」という場合、それはたいてい「頭で理解している」ということと同義だと思います。人間の方法で「理解する」ためには、まず言葉が前提にあり、対象となる事象に何らかの「意味」を持たせないことにはどうしてもうまく「理解する」ことができません。さらに、そのようにして理解したことは、「知っている」ということと同様の状態に至ったと果たして言えるのでしょうか。

 動物も植物も言葉を持たない生物は、言葉以外のより確かな方法でコミュニケーションを取り合っているからこそ、「知っている」のではないでしょうか。だからこそ私には、一輪の花でさえ、彼らが自分たちの命、つまり生き方と死に方に迷いがないように映るのです。そして、そのような在り方こそ本来「自然な」姿であり、地球の無数の生命においてはマジョリティーであるのだと思います。そう考えると、万物の霊長などと自身を崇高な統治者に見立てている人間という存在は、実は地球のちっぽけなマイノリティーでしかないのではないかという思いに至るのです。

 多くの人々が信じる「科学的根拠」という、たかだか数千年程度の裏づけしか持たない弱々しい「真理」では、とうてい理解することのできない地球の営み、秩序。人間もその大いなるものに抱かれて生きていることに変わりはありません。それなのに我々はどうしても「個」の意思や、それぞれが生きる人生の意義のようなものを問うてしまうものです。

 この星で、ある日「わたし」という命が始まり、振り返る間もなく過ぎ去っては消えてゆく。過去と未来が永遠という線上に存在しているのならば、今私が確かに生きているという座標は、この地球上のどのあたりに位置しているのでしょうか。そんなことを考えると、言葉や理性でしか理解することのできない不完全な私たちですが、一方で言葉によって思考する能力を与えられたことは、大きな喜びなのだと、ふと気づかされるのです。

 言葉が静かに波にさらわれ、泡となって消えてゆく。そんな渚に立った時、静寂の中に言葉を知らずともすべてを知っている生物たちの、賑やかな声が聞こえてくるような気がいたします。3月24日、初めて投稿させていただいた「言葉の渚」という詩は、そんな思いを込めて、私が初めて書いた詩です。

 私の思いを抱いた言葉たちがnoteに乗って、誰かの心にふわりと届く。そして何かを受け取っていただけたのならば、それほど嬉しいことはありません。これからも東野たまをどうぞよろしくお願いいたします。


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