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「わかりにくさ」と付き合う:慢性的な障害と疾患(遺書の補遺)

これほどまでに「わかりやすい」ことが無条件に賞賛され、病的にまで「共感」が求められるのは、一体なんなのだろうか。

 そんなことをもやもやと考えていたここ数ヶ月の思索です。

 前回のnote(遺書)では、「どうしたいの?」「こう思ってるってことなの?」という問いの背後に隠された分断の不可避性について、「偶然性」「相互作用性」「経時性」の3つの分断という観点で色々と書きました。あれから1ヶ月、1ヶ月とは思えないくらいさまざまな波を(また)経験しましたが、これから自分が向き合っていかなければならないことを、遺書の補遺として書き残しておきます。

 本文に入る前に、コロナ禍でこんな大変な状況の中、真摯に親身に治療に携わっていただいた(ている)医療従事者の皆様に、深い感謝と尊敬の念を抱き、贈りたいと思います。

1. 宿命、運命、余命、使命

 この前書いた遺書では、「意志」にまつわることを書きました。ちょうど遺書を書き終えた後、それと関連して、4つのことば「宿命」「運命」「余命」「使命」について、軽く考えてました(また学術的厳密性を犠牲にする代わりにできるだけシンプルに書きます)。

 「宿命」は、「宿された命」と書くように、既定で不変のもの、すでに決まっていて自身の意志ではいかにも変え難いもの(≒受動的なもの)、という響きを持っているように感じられます。「前世から定まっている」という説明もされるようですが、どうも未来志向的な響きはあまりありません。どちらかというと、「過去(前世)」からこういう「宿命」であるから、未来はこうなってしまう、というような感じで「過去ありき」で使われることが多いからなのでしょうかね。

 一方で「運命」は、「過去ありき」という意味も持ちつつ、「運命を変える」みたいに未来志向的に使っても違和感がないという点で、「宿命」よりも少し広い意味範囲を持っているように思われます(宿命を変える、だとちょっと変に聞こえます)。それでも、「運命の人と巡り合った」みたいに、それがあたかも「宿命」であったかのように使うこともできる、なんだかつかみどころが難しい概念です。少なくとも、「宿命」のように受動的な側面も持ちつつ、「運命を変えていく」みたいに能動的な側面も持っているように思われます。

 さて、この2つのことばに使われている「命」。これは「時間」という概念と密接な関係性をもちますが、その観点から考えると「余命」「使命」ということばが連想できます。
 「余命」は、「命が余っている」「余っている命」と書きます(*余っている、というとなんだか無駄なもの、みたいに聞こえますがここではそういう意味ではなく、「ある一定の時間に対して残りどれくらいか」という意味での「余」を意味します)。一般的には「(身体的な)死」という現象まであとどれくらい時間が残っているか、という意味を連想する人が多いかと思います。ただ、その「(身体的な)死」は、いつやってくるのか誰も知りません。「宿命」的に定められている側面もある(どの哺乳類でも、一生の心拍回数は約○億回、と言われるような類のものがこれにあたるでしょうか)し、極端には医療的な延命措置、自殺など(能動的な意味で)「運命」的に意志できる側面もあるでしょう。

 ただし、重要なのは「その「(身体的な)死」は、いつやってくるのか誰も知らない」が故に、「余命」は常に「振り返ってみたらあの時点から余命が〇〇年だった」としか事実としては言明できないことです。余命宣告などにおいても、その方法は統一されているわけではなく、「正確な余命宣告はそもそも困難」であり、「一般的には、同じ治療を数百人に行った論文のデータなどや、自施設のデータをもとにして、生存曲線の中央値(50%の方が亡くなられる時期)をあげて説明するのが一つの方法」と言われています(引用:大須賀(2018)より(下記記事))

 一方で、「使命」は「命を使う」と書きます。これは、どのように使うのか?という観点で、今後(未来)の行為を変容させることができるという点で、能動的な意味を多分に含んでいるように感じられます。
 どのように「命を使うのか」というのは、当然のことながら「宿命」的に定められている部分や、「運命」的に変えていくことができる側面もあるでしょう。そのような受動的・能動的な(あるいは「中動的」な)カオスが絡み合った結果として、「使命」なるものが浮かび上がってくるように感じられます(少なくとも私には)。

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(吾峠呼世晴(2017)『鬼滅の刃 8巻』第64話「上弦の力・柱の力」p. 62より)

ここで煉獄さんの母が言っている「責任を持って果たさなければならない使命なのです」の「使命」は、どちらかというと「宿命」的な使命でしょう。ただし、その「使命」に従って行為しないことも選ぶ余地が少なくともある(選べるかどうか、はさておいて)という点においては、使命には「宿命」に左右されない点もある、と言えそうです。結局煉獄さんは、その「使命」を全うしましたが(漫画では、「俺は、俺の責務を全うする」という表現になってます)。

2. わかりにくさに対する否定的な時代性

 「運命」とか「使命」は、何か美しく、潔く、かっこいい響きを持っています。だからこそ、運命論的な恋愛ソングが流行ったり、「私は/僕は/俺はこんなことがしたいんです!」というビジョン的な使命がその人のライフヒストリーと一緒に語られることに、人が感動したりするのでしょう。
 そして、そのように単純化された「運命」「使命」がもてはやされ、(時には無条件的に)賞賛されるこの時代に、若干の違和感を覚えざるを得ない、というのが私の正直な気持ちです(*そのように行為する人を否定する意図は全くありません)。そもそも、「運命」や「使命」は(先程の議論で暗示したように)「宿命」や「余命」などの受動的なものに規定されている側面もあるし、だからこそ「意志」できる余地が生じてくるといえます(これは、決定的に「わかりあえない」からこそ「わかりあえる」と思うことがある、という前回の遺書の議論と軌を一にします)。いったいなぜ、そのような「わかりやすさ」が無条件的に賞賛されるのか、というのはそれこそさまざまなレイヤーでさまざまな議論があるかと思いますが、少なくとも私は、キラキラした側面だけを照らし出して、その裏にあるグロテスクな部分を覆い隠してしまうような姿勢をとって生きたいとは思えません。

 双極性障害という、みえない・わかりにくい障害を抱えてしまったこと、そして慢性疾患を抱え、どんなに頑張ってもポジティブになりきれないほどに予後がよろしくないという現実を前にして、「わかりやすさ」「シンプルさ」に収斂していく雰囲気と世の中に、辟易せざるをない感覚を持っています。そして極端には、「そんな逆境を乗り越えてここまでできるなんてすごいですね」など、ある種の「感動ポルノ」的な仕立てで肯定するような語りにも、無力感を抱かざるを得ません(*繰り返しになりますが、そのように言う人を否定する意図は全くありません)。

3. それでもなお、使命を語り、意志すること

 おそらく、我々は「慢性疾患」的なわかりにくさに付き合っていく言語を持ち合わせていません。今ではいろんなところで耳にするようになった「エビデンス」、「これは問題だ」と思ったらすぐ行動しなければならないと思ってしまう「問題解決」への衝動、無条件に賞賛され求められる「共感」「矛盾」する言動や立場に対する本能的な嫌悪感の数々...。あげればキリがありませんが、表面上見えるもの・見たいものだけに反応し、それが極度に断片化した結果として、「分断した社会」などと呼ばれる現象がいま生じてきているのではないか、と勝手に推測しています。

 ひとは常々生成不変し、その都度苦しみや辛さを感じ、楽しさや幸せを噛み締め、生きていくものだと思います。それは、「急性疾患」のように、何かわかりやすい原因があって、それさえ取り除けば万事解決、というようなものではありません。「服を買いに行く服がない状態」のような、どうにかしたい意志はあるけどどうにもできない現状にいる、というような事象に対して、「服をあげる」ような贈与的行為はもちろん重要ですし、それが疾患を楽にする処方箋になりうるのも事実です。ただ、服を与えたところで、その先に待ち受けるより困難な問題は解決するでしょうか?例えば、糖尿病はインスリンを大量に投与すればなくなるものでしょうか?そうではないと思います。では、そうではないからと言って、何もしないでおくことが正解なのでしょうか?そうでもないと思います。

 病気や障害に限らず、慢性疾患的な問題(組織の問題、人生の問題、人間関係の問題、お金の問題、社会問題と括られる問題...)に対して、「問題解決」的な姿勢で臨むことは、どうも適切でないように思います。それは解決しようと思って解決するものではなく、うまく付き合っていって、気がついたら「あ、そういえばなんか解決してたわ」のような類のものだと、なんとなく感じるのです。

 かといって、現時点で私はそれがなんなのか、という言語やシステムを持ち合わせているわけではありません。というより、そのように「それは結局なんなの?(≒結局どうしたいの?)」というパラダイムの言語で語る限り、その本質は理解できないように思います(じゃあどうしようもないの?というニヒリズム的な態度も然り、です)。ひとつだけいえることは、背負ってしまった宿命と余命に定められながら、それでもなお使命を持って運命を変えていく、そのような意志を持って、一人でも多くのひとがより豊かに生きることができる社会はいかに可能か?という問いを問い続けること、そのような姿勢を持ってして、自分を含め、さまざまなひとと付き合い、時に向き合っていくことを意志する、ということです。

わかりあうってことは、ゆるしあうってこと
”迷い”や”不安”でさえも、僕らの”いちぶ”なんだよ
ひとつひとつの涙をちゃんと覚えておこう
ほら、また君と笑い合えたら
(いきものがかり「なくもんか」)

 「わかる」という軸で慢性疾患的な問題と付き合うは、おそらく不適切だーたったそれだけしかないですが、「ひと」という本質だけはぶらさないという意志だけは堅持して、残りある生を全うしたいと思います。

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