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珈琲とダマヌールの哲学

スタバが日本中を席巻して以来、昭和の珈琲文化を支えてきた地域の喫茶店や珈琲専門店がばたばたと閉店してしまって寂しい思いをしていましたが、最近はスタバに飽きたらない人々が新しい珈琲文化を築きつつあるようで、昭和の珈琲マイスターたちとはひと味違った新しい珈琲店を見つけるのが最近の楽しみの一つです。

ようやく探し当てた好みのお店から焙煎した珈琲豆を送ってもらっては自分で淹れているのですが、自分でするドリップは、少しの気の緩みが味に反映されてしまうため、とても内省的な作業になります。

糸のように細く、お湯をドリッパーの中挽きの粉に滴下していくと、コーヒー豆がふんわりとしたドームを形成していきます。膨らみすぎてドームが崩れないように、そしてコーヒーサーバーに落ちていく抽出液の色や量に注意しつつ充分に蒸らしたら、あとはできるだけドームが程よい大きさを維持できるように、滴下する湯の量や位置を調節しながら無心に湯を注いでいきます。

味を左右するドームの膨らみ具合は、お湯の量や熱さ、コーヒー豆の挽き具合、そして焙煎からの日数や保管状態にも左右されます。できるだけ同じ状況を作れるように気をつけていても、少しの気持ちの揺れや集中の途切れが手元にわずかな変化を起こし、それは最終的にコーヒーの味に現れます。

最近の珈琲マイスターたちは、以前と比べると随分自由でカジュアルになりましたが、昭和の頃の珈琲専門店には伝説の珈琲マイスターたちがいて、それぞれ独自の流儀をもっていました。道具の取り扱いからお客さまとの距離のとり方に至るまで、茶道の作法にも通ずる、独自の哲学とも言える「流儀」です。

無心にお湯を滴下していると、ダマヌールの哲学の学校で習う「流儀」との類似に思い至ります。人間の精神は繰り返し繰り返し、毎日少しづつ鍛えていかないと、新しい機能や能力を獲得することができない。繰り返し滴下する水滴が、やがて岩に穴を穿つように、不断の継続によってのみ自分を変えることができる、というものです(ダマヌールではさまざまな隠された機能を開発させるための、指や特別なペンで図形をなぞる「スキーマ」が作られており、センターなどで購入することもできます)。

自分で淹れるコーヒーとは、儀式的とも言える忠実な反復作法としての準備と、無心になって自分の意識をさらにその上位から観察するような、ある種の精神的修養にもなるのかもしれない。その境地に達した時、自分の淹れるコーヒーの味も伝説のマイスターたちの味に少しでも近づけるのだろうか?あ、こんなふうに欲を出しては、元の木阿弥、かもしれませんね。 

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